フィールドワーク録19−3 (起:平成30年3月25日(日))  目次へ  平成30年1月〜3月中旬へ

あとどれだけ闇の中を行けば、光輝く地平を望むことができるのだろうか。今日も旅行く。

3月25日(日)・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

千葉法典の駅の近くを徘徊す。

〇藤原観音 ・・・ 身代わり観音だそうである。ありがたい。近くに「法典村之碑」もあった。昭和12年に船橋市と合併したときの記念碑らしい。

忠魂碑もあり、このあたりが藤原村の中心だったようである。桜の花も咲いておりました。

〇唱行寺 ・・・ 日蓮上人の弟子・日唱さまが開いたという日蓮宗の名刹。お寺の建物自体は新しいモノですが、入口が古刹らしくてかっこいい。夜来たら恐怖に髪白くなるレベル。それにしても鎌ヶ谷・船橋あたりは馬頭観音像多いですね。

こちらのふたつは庚申塔(見ざる、聞かざる、言わざるが刻まれている)、まん中のと一番向こうが馬頭観音。

〇姥山貝塚 ・・・ 縄文中期の馬蹄形貝塚。明治の人類学協会の発掘(本郷から遠足で来て掘っていたらいろいろ出てきたらしい)以来、150体近い人骨が出たということである。「先史縄文人之霊」という墓石も立っていた。縄文人の住居形式がカマド附き竪穴式であったことが確認された遺跡である。

半円に貝塚があって中央部が窪地になるという特徴的な馬蹄形貝塚である、とのこと。

4月15日・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

〇国立公文書館春の特別展「徳川幕府最後の闘い――幕末の文武改革」を観覧してきました。

ありがたいことに入場無料である。余ったおカネで音声解説200円で借りる。

これは「会読」方式による教育などを定めた萩・明倫館、米沢・興譲館の規約。藩校にも昌平坂学問所が参考にした名門があったのである。逆に昌平坂学問所で勉強したやつが藩校に帰って最新の知識を伝えたのだ。ペリー艦隊に対応した幕府通詞や阿部正弘の改革、幕府海軍の全容なども勉強できた。お客さんも適度にスカスカですばらしい。

なお国立公文書館のあたりに洋学所とかあったそうです。

ついでに隣の国立近代美術館の横山大観展も高いカネ払って見て来ましたが、こちらは写真撮影禁止だから撮影せず。

4月29日(日)・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

東海道保土ヶ谷宿周辺を散策。

〇軽井沢古墳 ・・・ 横浜市三ツ沢台地の端に築かれた全長40メートルぐらいの前方後円墳。七世紀のもの。宅地造成で消失したが、跡地に碑が立っているんです。

写真の真ん中あたりの崖上に古墳があったんです。なお、明治まで台地の向こうは東海道があって、その先はもう海であった。
いまは自動車教習所になっている。

〇浅間神社 ・・・ 保土ヶ谷宿の江戸から入口にある富士山型(だったらしい)の丘陵上の神社。院政期に創建ということだが、境内に「浅間神社境内横穴古墳群」あり。おそらくこれらの洞穴が富士山人穴までつながっている、とされていたそうです。

咲耶姫保土ヶ谷にあるおメメツコ (「俳風柳樽」八十)

「おメメツコ」てなんでちゅかねー。大人は知っているのかなー。

旧東海道側から参道を望む。

〇保土ヶ谷宿追分 ・・・ 東海道と八王子道が分岐する。八王子道は開化のころ、「絹の道」として殷賑を極めたよし。

右が八王子道である。

帷子川まで来たら日がとっぷりと暮れました。東海道は帷子川を越していたそうですが、今の流路はずいぶん変わっているらしい。

関西地区大調査報告(写真・説明等の充実は今後を待て)

5月1日 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

〇大阪・天保山 ・・・ 標高4.5mの日本最低山として名高い。天保年間に安治川の浚渫土砂で作られた。鳥羽伏見で負けた慶喜さまらがここから逃走された。

〇大阪城・難波宮跡、大阪歴史博物館 ・・・ 企画展として堀田龍之助展開催中。

5月2日 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

〇百済寺跡

〇鳥羽伏見開戦地 ・・・ 鳥羽伏見の戦いの第一弾が飛んできたところだそうです。

探し当てるのがそこそこたいへんでした。

〇大山崎町歴史資料館 ・・・ もう少しいろいろ欲しいところです。ガイドブック200円が20年以上前のもので、地形図として役に立たないのがツラいところだ。

〇恵解山(いげやま)古墳 ・・・ 大和朝廷の大王墓と同じ形式(大きさだけ縮小)された前方後円墳として国指定史跡となっている。

埴輪列などが復元されている。山崎合戦で明智側の陣としても使われたらしく後円部(墓地になっている)が一部削平されている。

〇勝龍寺城跡 ・・・ 光秀さま逃亡の城であるが、細川氏の居城としてガラシャさま爆死で名高い。
このあたり本丸遺構らしい(建物は復元でさえないと思われる)。近くに土塁あとなどあり。

〇山崎合戦明智光秀本陣跡

〇水無瀬神宮 ・・・ 水無瀬離宮の跡地である。

〇史跡・桜井駅跡 ・・・ 青葉繁れるところである。

古代宿駅桜井駅跡地と比定される場所。島本駅の真ん前にあります。楠公父子の像や碑が立っています。

〇島本町歴史文化資料館 ・・・ 20世紀末的資料館だが、中将棋の展示や鳥羽伏見戦のときの弾丸などおもしろいものあり。なお「かんちゃん」に子どもがいるのは衝撃であった。

これが「かんちゃん」。菊水のかぶとが特徴的であるが、足の間のスイッチをいじるとしゃべりはじめ、それによってコドモの「れきちゃん」、その友だちの馬の「ぶんちゃん」がいることが判明する。

5月3日 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

〇志摩国・青峯山正福寺 ・・・ 参道を歩いて昇ってみました。

「右 青峯道」むかしここを行ったひともいるのである。

正福寺の伽藍。今ではかなりぼろぼろですが、幕末〜昭和には舟の守り神としてたいへん信仰され、多くの奇瑞も語り伝えられている。

燈籠も危急を救われた船乗りたちからの寄進であり、写真左上あたりに並んでいるのも「船」の絵馬。進水時に無事を祈る者、海難救助の感謝、遭難した者への供養など・・・。麓から船乗りが担いできたという錨もあった。

これは大正何年だかのベヨネーズ岩礁の火山バクハツのときに付近を航行中に間一髪助かった御前崎の船乗りたちの感謝の絵馬。当時の状況が詳細に描かれている。同じときに遭難した船もあるので、彼らの「生き残った不思議」への感謝は強かったであろう。

〇伊雑宮

〇倭姫遺跡 ・・・ 昭和初期に石の下から勾玉などが出、倭姫さまのご遺跡(お墓地)かと思われたが、伊勢市内の倭姫神社建造中であり、官憲がすべてをもちさってしまった、とのこと。

ここに祀られている石板の下より出たのである。官憲、さらに戦後はGHQがすべてを隠してしまったのであろう。

〇上之郷の石神さま ・・・ 神威あり。夜中にひとりでいたら白髪になる感じ。

すぐそばの「郷社跡地」が「立入禁止」になっているなど、不思議なのである。

〇風呂遺跡 ・・・ 泉。伊雑宮参拝者が身を清めたという。

〇おうむ岩 ・・・ 「東西遊記」にも出る希代の名所。荻生徂徠や佐久間象山も来たという。岩の前で話すと、その声が岩の中から聞こえるというのである。ただし、話す場所と聞こえる場所が違うので、一人で行っても実験ができぬ。「倭姫機織場」という岩場もあり。

あの山の上にあるギザギザなのだ。登るのつらい(←くるまがあればすぐ近くまで行けますが)。
全容(上の写真の裏側になる)はこんな感じの岩である。

5月19日(土)・・・・・・・・・・・・・・・・・・

大塚ハーツにおいて「山崎ハコバースデイコンサート」を拝聴してまいりました。なんだか知らんがまた泣いた。ペンライトなどにより不思議な一体感を持って終わりましたが、今日は一段と手作り感の増したライブであった。「ヨコハマから」発売お待ちしております。

5月27日(日)・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

調べたい絵があって明治神宮外苑聖徳記念絵画館へ。明治天皇御一代の事績を日本画・洋画計80枚で回顧。絵師も当代一流、寄贈者もおもしろい。

建物自体も重要文化財らしいんです。特に明治憲法発布の画面が見たくていったんです。うーん、なかなかむつかしい。

6月2日(土)・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

夏だぜ。海に行ってみた。ちなみに「幕張の浜」です。

夏が来ているぜ。この夏こそ自分を変えて、「本当の自分」になるんだ!と初めて思った夏からもう50年ぐらいになるぜ。

危険なので自己責任で行け、という防波堤の先に行ってみる。もしかして「本当の自分」がいるカモ、というかすかな期待を持ちて。

自分はいないけど、廃墟じみた状況があった。

今日もまたどこにも「本当の自分」がいなかったので保守化し、「明日もいい一日でありますように」と海に祈るぜ。

6月4日(日)・・・・・・・・・・・・・・・・・・

今日は「幕張の浜」から習志野臨界公園方面へ行ってみるぜ。

千葉には廃墟がよく似合うぜ。

このふきんではおよいではいけないみたいです。今夜こそあの日の沈むあたりで眠りにつきたいものだが。永久のやつでもいいかも・・・。

6月9日(土)・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

縁故車(←愛ではなく縁故により結ばれたのでこのようにいう)を車検に出した後、前から気になっていた横浜市都筑の「山田富士」を見てきました。各地の冨士講の作った「〇〇富士」の中でもかなりの大がかりなやつで、「新編相模国風土記」にも登場するよし。なお縁故車は右側かなり削ってしまったので板金で〇十万円は要るとのこと。

ここまで来るのに何十メートルか登る。脱水してきた。

山頂火口部に当たるところから見渡す。日産スタジアムや都筑の観覧車も見えて、案外いい眺めである。天気がよければもちろん富士山も見えるだろう。

6月16日(土)・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

一年ぶりに小手指・北野天神を訪れました。小手指合戦の比定地としても名高い。

平安時代に起原する北野天神社に、より古い入間五社のうち延喜式内社二つを合わせ祀る。

・総神社。今回はこれを紹介しておきます。源頼朝の命により全国3.123の延喜式内社の全祭神を集めてあるという社殿である。

ただし現在の建物は室町時代の再建だ、と書いてあります。

・こてまる

烏帽子は菅原道真公、腹の家紋は新田義貞公のものである、「このポーズ、決まっているでしょ」と書いてあった。

6月17日(日)・・・・・・・・・・・・・・・・・・

今日は多摩湖一周にチャレンジ。

・玉湖神社

多摩湖畔にあり。ただし、拝殿を喪失しており、本殿内も「宿泊禁止」の張り紙があるだけでご神体など無くなっているようである。

狭山湖とはまた雰囲気が違うんです。
東村山の庭先なんです。遠く秩父の山々も見えた。

6月24日(日)・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

霞ヶ浦をうろうろ。こちらを参照。

 

7月15日(日)・・・・・・・・・・・・・・・・・・

酷暑である。大自然の試練に耐えて、「こもりくの名張」に古墳見に行く。なお、名張は伊勢の国にあり、現在も三重県ですが、名張川は奈良に流れ、この川までは「畿内」とされていたのである。

〇国指定美旗古墳群 ・・・ 国造伊賀臣の五代の古墳の変遷が遺るすばらしい古墳群である。しかし暑いしレンタカー止める駐車場が無いので一番大きい(時代的には三番目とされる)馬塚古墳だけ訪問。

あちー。馬塚古墳。右手が前方部で、中央部が後円部。後円部は比高数メートルだが意外と眺望がよかった。観音さんの石像などが並ぶ。

〇名張市郷土資料館 ・・・ オオサンショウウオの研究をしています。
オオサンショウウオの剥製。ではなく、模型。
琴平山古墳↓出土物。左の方の小さいドーム型のものが竪接(たてはぎ)型兜。真ん中のケースにかなり長い鉄剣が入っています。

〇鹿高(かたか)神社 ・・・ 延喜式内ではなく「国史見在社」というグループ(六国史に出てくる神社)の古社です。神社裏は前方後円墳になっている。名張川支流の宇柁川から見上げる場所にあり、大和から飛鳥→室生と来て、伊勢国に入ったところに位置する。

神社拝殿から見下ろすと、下の鳥居の向こう側に国道165号線、その先まで参道が続いて、宇陀川の川岸から上がって来る形になっています。古代の木材集積地であった模様。この左手の方が名高い東大寺黒田荘。

〇琴平山古墳 ・・・ 美旗古墳群に葬られる伊賀国造が凋落したあと、名張周辺を抑えた首長家の古墳と考えられる。石室が二つあり、鉄製の剣や兜が発見されているのである。中世期城郭でもあったもよう。

ここから尾根に上がっていくと、そこが後円部になっている。石室の一部と思われるものが露出している。

〇名居神社 ・・・ 延喜式内社。地震対策のために諸国に定められた「ない」神社の一、ということである。

集落の中にあるんですが、なかなか神威ありそうな雰囲気。
なんかいいことある、と思われます。おみくじもまずまずだったし。

7月22日(日)・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

所沢・山口観音さまにお参りしました。よく行ってる場所なんですが、今日はその中から、閻魔堂をご紹介します。

閻魔堂です。
正面からみて右側の額。右端の観音様が助けに来てくださるようすかなあ。観音様の方に向かって走っていくのがイヌやネコなので、ここは畜生道なのでしょう。

これは左側の額。地蔵様が雲に乗っておられて、小さなコドモがたくさん一緒に乗っています。天女ちゃんも二体来ている。橋の向こうはどこなのだろうか。極楽か。みなさんもようお祈りすると、ほんとにいいことあると思いますよー。現世ならずとも。

なぜ山口観音によく行くか、と言いますと、ここのすぐ近くにあるからなんですなあ。ありがたや。

7月28日(土)・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

本日は台風の中、国立公文書館企画展「平家物語」を見学。

怨霊系の絵の鑑賞に加え、各種平家物語の読み比べなどができる。敦盛最期の評論などもおもしろい。
大臣絵・清盛さま。後半は頼朝さまになるらしい。

平家の重宝・小烏丸。現在、現物と称されるものが宮内庁御物として存在するが、ホンモノかどうかは不明とのこと。後半では源氏の重宝が出てくる模様。

8月5日(日)・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

柏の葉で熱射されて、ふらふらしながら、1時間ぐらい歩いて

〇東深井古墳公園

に行ってきました。東深井古墳群では六世紀から七世紀のころの古墳がもとは25ぐらい密集していたそうですが、現在では18が遺存。それを地権者さまのご協力により東深井古墳の森として公園化したものです。こんな場所がこんなところにあったのか、と驚かされるような見事な森で、夕方だったんでカナカナがたくさん鳴いていて、心癒された。もう明日から会社に行かなくてもいいカナカナカナカナ・・・・と鳴いているのであった。
9号墳だったと思うんです。前方後円墳。鉄塔下の7号墳。珍しい鳥や魚のハニワが出たという。18号墳。円墳。古墳は原型をとどめているとはいえ、かなり浸蝕されており、その範囲に入ることはできません。
カナカナしぐれが降り注ぐ。周囲は住宅地ですが、森はそこそこ深く、しかも古墳である。深夜に迷い込んだら白髪化するであろう。

空はターコイズブルー、御世(みよ)の祖祖(おやおや)たちもこの空を見上げていたのですなあ。

8月11日・12日 筑後・八女地方大調査・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

肝冷一族の者たちが同じ時期に博多や筑後に入っていたようですが、あくまでもわたしどもは別グループの肝冷斎族です。数人だけでこのHPをやっていると思っているひとがいて困りますが、構成員にも全体像は示されていないとはいえ、肝冷斎とその周辺グループは全体で全国に百数十人(精霊やドウブツもいるようである)はいる、と推定されているんです。

今回、わたしどものグループは、筑後地方の「敗者たち」を調べてきましたのじゃ。(写真は後日)

〇八女古墳群 ・・・ 古代最大の内乱といわれる「磐井の乱」を起こしたと思われる筑紫の君家(磐井のコドモの葛子以降は「筑紫国造家」)の代々の古墳である。詳細は後日

八女古墳群でも最も末期と思われる童男山古墳群一号墳。徐福伝説があり、このあたりで徐福が亡くなったんだそうですよ。もう少し奥まで行くと徐福像もあるみたいなんですが、坂道きついので断念す。
〇征西将軍・懐良親王墓所 ・・・ 後醍醐天皇皇子。一時期は九州を平定なされた。宮内庁の管理している墓所は八代にありますが、八女の星野・大円寺で亡くなった説も。
すごい山の中でした。対向車あったらどうしてたんだろう。

〇後征西将軍・良成親王墓所 ・・・ 後村上天皇皇子。懐良親王を継いで征西将軍となるが、五条氏の支援を受けながら八女・矢部に隠れ、この地で没したという。明治になって宮内庁によって墓所に認定され、その管理を受けている。
こちらもすごい山の中なんですが、一応集落の中にあった。

さらに、久しぶりで

〇八女津媛神社へ。すばらしいです。

岩窟からの滴り水を飲めるようにしてくださってあったので飲みまくった。

〇坊津街道 ・・・ 鹿児島と博多・門司を結ぶ坊津街道、筑後船小屋付近を散策。

これは勝者に該当すると思われるのですが、17世紀末から18世紀前半にかけて30年以上も関取を続けた大力士・秋津島浪右衛門の生地に建てられた供養塔。

このほか、付近には壇之浦で敗北した平家残党が逃げて来て、追手と戦った一の塚合戦跡地あり(夜でコワくて写真とらず)。ヘイケはさらにみやま市山川町付近まで南下して、要川合戦で全滅したという。

8月14日・15日 尾張地方調査・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

おいらたち、中京グループは、熱田方面の調査。熱中症で何人かの一族が行動不能になる大損害であった。

〇断夫山古墳 ・・・ 尾張氏の古墳の一つ。東海最大の前方後円墳だが、あちこち欠けてしまっている。
管理事務所に頼むとここから入れるようなんですが、今回は外周のみ調査。
〇白鳥陵古墳 ・・・ これも尾張氏の古墳と思われるが、日本武尊の白鳥陵だともされる。特に宮内庁は管理していないようです。前方部の一部しか残っていない模様。

〇七里の渡し・宮
この燈籠は犬山藩(尾張藩附家老)の担当だったようです。

〇熱田神宮

〇尾頭塚 ・・・ 伝為朝塚という。

8月18日・19日 群馬県西部調査・・・・・・・・・・・・・・・・

高崎から初めて、これまで行ったところが中心なんですが、調査。

〇高崎白衣観音

〇保渡田古墳群

〇箕輪城

〇榛名山頂・榛名神社

〇霧積温泉

〇碓井関所

〇妙義神社、中の嶽神社 ・・・ 妙義神社は初めてお参りしたはず。中ノ嶽も来たことないと思っていたが、巨大ダイコクさまは初めてではない。以前来たことがあったのだ。階段ツラかった。

中の嶽神社。真ん中あたりに日本一のダイコクさま。そのはるか頭上の岩場まで昇る。

〇貫前神社

〇富岡製糸場 ・・・ ここは明確に初めて。かなり広いんですね。

9月2日 美術館・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

夜のしごとの前に、

〇六本木タワー森美術館 ・・・ 「建築の日本展」を観覧。
〇サントリー美術館 ・・・ 「琉球 ――― 美の宝庫」を観覧。

高いところはコワいが楽しい。

そういえば先週、8月26日に新横浜「ラーメン博物館」を調査していたのを思い出しました。

「ラーメン博物館」内のチャルメラおじさん座像。

9月16日(日)

新習志野駅付近で一仕事終えて、津田沼まで歩く。

〇谷津干潟 ・・・ かつてはこのあたりが遠浅の海岸線で、海水浴場や京成谷津遊園地があったということである。

ラムサール条約のなんやらになっているそうです。

自然観察所。370円取られるとは・・・。

京成谷津遊園地の前には野球場があり、ここで昭和九年に日本代表チームとメジャー代表が試合した・・・ここまでは史実なのですが、なんとここには正力松太郎氏の揮毫による「読売巨人軍誕生の地」のオブジェが。ウソはいけません。このときのチームをもとに「大日本東京野球倶楽部」が創立されたのさえこの年の暮れ。このチームが「東京巨人軍」になるのはまだ先のことです。おまけに「大学野球の選手たちが集まり・・・」って、ほとんどの選手は芝浦野球団の所属やったやん。こういう「捏造」を行う言論機関、それを許す公園管理行政・・・、まったくもう。

9月23日(日)・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

〇愛宕山横穴墳墓群 ・・・ 仙台市南部、広瀬川右岸にある横穴墓群。付近に郡衙遺跡があり、その関係者の墳墓かともいわれる。そうすると七世紀以降ということになろうか。(なぜ仙台にいるかについてはこちら参照)
中央左手の丘の川岸側にあるはず。埋まっているもの、埋め戻されたものも多いというので、確認できるかどうか不明。
国土〇〇省宿舎のさらに奥に、数個の横穴を確認できたが、これ以上奥は草むらと蜘蛛の巣がすごいんで断念。

9月29日(土)・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

〇国立公文書館秋の特別展「躍動する明治」観覧。
カッコいいなあ。
これで無料? しかも友だちがいなくても一人で遊べる「明治クン立身出世ゲーム」も特別にもらえる!
〇上野公園

次のうち、温かい血の流れる人間といえるのはどれでしょう。
@西郷さん

Aなぞの白いひと

B野口英世


〇国立科学博物館で「特別展 昆虫」を見る。1600円もした。

Gの部屋」という長蛇の列の特別室もあった。世界のGが標本だけでなく生きているにも展示されてモゾモゾ。
G」こと勇者ブリキーゴたちの写真をアップするとショックなひともいるかも知れませんので巨大な蝶の模型でガマンします。

これはすべてチョウチョの標本でゾワゾワ。

10月7日(日)・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

所用がありまして岩槻へ。

〇岩槻城址公園 ・・・ 安土桃山期は小田原北条の股肱・太田氏の居城、江戸時代は譜代岩槻藩のお城である。今公園となっているのは、本丸等の主郭(これらは既に市街地となっている)の南に設けられた「新曲輪」で、ここは豊臣軍を迎え撃つために拡張した部分である。
岩槻城城門(黒門)。廃藩置県後浦和の県庁の門になったりしてたそうです。城内のどこの門だったかは不明とのこと。
城址公園内の「八つ橋」。八つ橋をナマで渡ると「生八つ橋」である。
城址から少し離れた元荒川沿いにあった庚申塚。工事車両置き場の近くに無造作に存在していたが、かなり大きく、とりあえず寛政年間のものが確認されたが、もっと古いのもあった。

10月13日(土)〜15日(月)・・・・・・・・・・・・・・・・・

宮崎南部調査。(写真類は後日)
〇油津・堀河運河 ・・・ 17世紀に作られた運河。油津は江戸川乱歩も住んでいたのである。
橋の左側は吾平津神社。神武帝の妃・吾平津媛を祀る。

〇吉松家住宅(串間市) ・・・ 吉松家は秋月藩に伴って筑後から16世紀末に串間に来たんだそうです。大正期に衆議院議員になって日南線の延長に力のあった吉松忠敬が大正八年に建てたのが吉松家住宅。すばらしい。

吉松家正玄関。もう一つ玄関があります。もちろん勝手口は別にあります。

大広間。結婚式もできる。

〇串間神社 ・・・15世紀から確認できるとのことですが、特に仮面すばらしい。吉松家住宅に展示されている。なお、「六尺どん」の石碑発見できず。

十三柱の神々を祀るゆえ、十三社さまともいう。

〇東霧島神社 ・・・「つまきりしま」と読みます。もと山岳修行地であったらしい。いざなぎ尊の「みきだ」に斬ったカグツチさまが石になって現存する。現在、安産の神というのみならず、南九州屈指のパワースポットとされる。

境内入ってすぐの「神石」。イザナギが三段(みきだ)に斬ってしまったらしいんです。

この鳥居をくぐって石段を昇っていく。左のクスノキには洞があり、これがまたパワーあるらしいんですが、右には赤鬼が置かれていて、手水水を汲んでくれる。

〇西都原古墳群 ・・・ 広い。

10月28日(日)・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

前日廣島市内で所用があったので、東京に帰る前にひと観光していこうと、高いレンタカー借りて念願の「日本ピラミッド」へ。

〇日本ピラミッド葦嶽山・鬼叫山 ・・・ 昭和のはじめにピラミッド研究家・酒井勝軍が発見した日本ピラミッド第一号とされるのが庄原の葦嶽山で、自然物とは思えない三角錐型の山頂部を持つ。その葦嶽山の隣が鬼叫山で、ここには獅子岩、方位石、鏡石、神武石、供物台、鷹石などの巨石群が存在し、古代遺跡ではないか、と戦前から言われているのである。しかし酒井によれば陸軍に破壊されたよし。なお、神武石は複数あって、古代アヒル文字が刻まれていたらしいんですが、大正期にこのあたりに神武天皇の埋めた財宝がある、とのウワサがあり、財宝探しのために倒されてしまった(今も残骸あり)とのことである。登山的には大したことないみたいなんですが、しろうとの肥満おじさんにはきつそうだが、がんばって行く。

登山口。ここまでくるまでにニホンカモシカに至近距離で会ったり、道路わきの溝に脱輪したり「警告」カモ、と思ったが、ここまで呼び寄せるモノもあるのである。「クマ注意」だが行かねば。

整備された登山道を昇ります。ヘビに二回出会った。シマヘビだと思うが「毒蛇注意」も書いてあるのでコワい。なにより重労働で心臓苦しい。しかし、行かねば。

やっと尾根道に出た。

この先はこんな平坦な道になるのか、我がこれからの人生もかくあれかし・・・と思ったんですが、また昇りが出ていい加減足腰まいってきた。戻るわけにはいかぬ。

這いあがるように昇ってくると、ついに

巨石その一、「鷹岩」だ。もう少しだ、と思って、石や木につかまって昇る。葦嶽山はどこから見ても三角錐形なので、急峻なんです。

ようやく山頂へ。ここはむかしは巌境になっていたらしく、さらに酒井勝軍師によればここには「太陽石」があったらしいんですが、陸軍が破壊したとかなんとか。

遠く庄原の町と、ヒバゴンなども棲むという中国山地のやまなみが望まれる。

しかしながら、ここは葦嶽山の山頂。「巨石群」はもう一つ向こうの峯である「鬼叫山」にあるのだ! まだ行かねばならないのである。

葦嶽山から断崖のような下り道を降りると、

あずまやがあって、そこからまた急な上り坂を昇れということである。このあたり「毒蛇注意」の立て札あり。にょろろん。

こんな急こう配を昇ります。すると・・・

ドルメン(供犠岩)だ。巨石群に供犠を捧げるための台と見れるためこの名がついたという。ここを過ぎると、

ついに青年時代より憧れた巨石群に到達!

(以下、今後の更新を待て)

〇蘇羅比古神社 ・・・ 庄原にある延喜式式内社。もともとは神社裏の鍬寄山(権現山)の巌境を祀る麓社であったという。山は現在はマツタケ止め山になっていて入れません。すばらしい杉と竹林があった。

わーい、すばらしい杉である。垂仁天皇時代のものだ、と書いてありました。六世紀?

〇鍬寄一号墳 ・・・ 蘇羅比古神社近くにある古墳であるが、横穴式石室だけが遺る。このあたり砂鉄地帯であり、古代の鉄器生産豪族首長の墳墓ならん、という。

あっけらかんと石室の残骸だけあり。このあたり、屋敷墓の線香や野焼きの煙の匂いがして、懐かしい秋の農村である。

11月10日(土)・11日(日)

都内で無料のところへ。

〇有栖川公園 ・・・ 有栖川宮熾仁親王の騎馬像を観に行く。
昭和20年までは陸軍省の前(現在の最高裁)にあったんだそうです。
11月11日(日)

タダ券もらったので行ってみた。
〇久米美術館 ・・・ 今日までで終わりの特別展「久米邦武と旧久米邸」、無料では無いんですがタダ券もらったので観に行く。
しかしタダ券を忘れてきたので500円払う羽目に。

〇イイノホール「佐野優子トーク&ピアノコンサート」 ・・・ 無料ではないんですが、タダ券もらったので聞きに行く。
クラシックなんでブルジョワジーの世界です。本来こんなところにいていいようなニンゲンでは無いのでございやすが、タダ券もらったので・・・。

 

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