フィールドワーク録12 (起:平成25年7月14日(日))  目次へ  平成25年6月へ

異端のゆえを以て沖縄追放!
←沖縄に帰りたいでちゅう。しかしやつらには、これ以上わしに知られたら困ることがあったのであろう。

7月14日

本土フィールドワーク中。

○月夜見宮 ・・・ 豊受大神宮別宮。

○月読宮 ・・・ 皇太神宮別宮。月読尊、月読尊荒御魂、伊弉諾尊、伊弉冉尊を祀る。「内宮・外宮以上のパワースポット」として人気急上昇中!!らしい。

筑前・宗像社の第二宮・第三宮の社殿がここの建材を使っていたのだったなあ。

○知盛山久昌寺 ・・・ 新中納言平知盛は壇ノ浦で自決せず伊勢国矢持の里に逃れ、久昌寺を開いて一族の菩提を弔ったんじゃ。本尊の梅花観音像は国指定文化財である。寺裏には知盛さまのお墓もある。

←久昌寺。知盛さまのお墓も撮ったけどコワいのでアップせず。

○伊雑宮(皇太神宮別宮) ・・・志摩国にあり。クスノキの木が多い。海人族の聖地である。

○天岩戸 ・・・ 皇太神宮南側の山中に「高天原」と呼ばれる一帯あり(恵利原という)。天岩戸跡と伝えられる水穴(滝原窩)、風穴ありて神威びしびしたり。

←天の岩戸。「飲んではいかん」という水飲みまくってみた。

20日

ひさしぶりで沖縄フィールドワーク中。しかし、あからさまな弾圧により一泊二日なのが悲しいところ。

まず中城にて、

○安里のテラ

←中に四奇石あり。(今はもっと増えている) じがばち多し。

○津覇(つは)のテラ

←静寂で本土の鎮守の森にフンイキきわめて似る。

をフィールドワーク。沖縄の「テラ」は本来、古い葬地のことであろうと想像されるが、今では「寺院」と混乱して「むかし寺院があったのだ」みたいな伝承を持つ「テラ」も多い。安里・津覇のテラは寺院ではなく、石神祠である。このあたり東海岸に近く、いずれも海辺伝承に絡んだ怪石を祀る。それぞれのユイショは「琉球国由来記」にあり。

ところで、本土ではなぜ寺院のことを「テラ」というのかな?サンスクリットの「テーラ」(長老)に語源を求めるひともいるが、漢語に対応する語が無いので難しい。もともと大和古語に死者の葬地をさして「テラ」といい、これが沖縄にはそのまま伝わり、本土では仏教の導入により寺院を「テラ」というようになった・・・というのが仲松弥秀先生の説。

その後、平安座島まで行き、金武湾の夕日を見てニライカナイのある場所を確認した。

←あそこですね。ニライカナイへの入口は。確信。

その後、北谷でステーキ食った。ぶふう。

21日

行けるところまで行きたくて、古宇利島まで行って帰ってきてセルラースタジアムへ。
そのあと那覇市内福州園見学。意外とすばらしかった。

←那覇の町中にこんなのがある。

県立博物館で特別展「は? 生物多様性?」を観、常設展の御嶽関係をチェック(新たな知見は特段無し)して帰ってきた。
この二日間で2キロ増。それだけでも普通の人なら絶望でしょうが、しかも月曜からのシゴトのこと考えると絶望すごいよー。

27日

所用ありて横浜・都筑へ。「和名類聚抄」「武蔵国 都筑郡 豆々岐(つつき)」と記されている古い土地である。牛久保公園で昼寝した。

←牛久保公園。日陰はキモチいいん。

(東京に連行され、会社側大弾圧にてなかなか観光させてもらえません。わしを誰だと思っているのだ!と言いたくなってきます。)

8月10日

本日は八王子へ。
八王子郷土資料館にて市内出土土偶・土器、八王子城、八王子千人同心、八王子空襲などについて学んだ後、

信松院を外から参詣。武田信玄の遺女・松姫さま(四女とも六女とも。織田信忠の許婚者)は八王子に逃れ、後、武田の遺臣を中心に大久保長安らによって組織された八王子千人同心のもとに庇護され、出家して大阪の陣のころまで生きておられた。その方のために千人同心らが開いたのが信松院なるよし。

←かっこいい土偶の数々。←文楽人形。ちょっとコワい。
←信松院前。松姫さまの道中姿。へへへ、仏門に入っちまうには惜しいぜ。(なんて思いませんでした)
←信松院の不思議な感じの仏閣(観音堂なるよし)。いい色出してますね。
17日・18日
二日がかりで千葉県鎌ケ谷市内の

○道野辺八幡神社(市内総鎮守と名乗る)・・・中世・中沢城の城跡であるよし。

←道野辺八幡社殿。

○中沢八幡神社(「郷内鎮守」の看板あり)

に参詣。いずれも深い鎮守の森があって涼しかった。
25日

外宮に詣でた。赤福氷食った。白石持ちしていた。

←外宮の杜。少し雨でけぶっている。

9月14日

もう九月ですよ。沖縄に帰る見込みはまだ立たず。

本日は西宮神社(えべすさん総本社)に参詣。
←初詣で有名なところかな。

・狛犬のしっぽが変
←七本ぐらいに分かれている。他のところのも、こんなにうにょうにょしていたっけ。(その後よそで確認したらこういうのいた)

・南宮神社 ・・・ 謡曲の舞台になっているという。

・荒えびす神社 ・・・ 中世、鳴動した記録ありという。

・練り壁 ・・・ 日本三壁の一なり。

そのあと、「傀儡師故跡」の碑を見てきた。

この地は中世期に「産所」というた(「散所」であろう)そうで、この地に住み着いて、人形芝居を行いながら西宮神社の札配りの門付けをした一団が「傀儡師」である。彼らは人形遣いをはじめた「百太夫」を始祖神として広く活躍し、その技術から阿波の人形芝居や上方人形浄瑠璃が生み出されて行ったよし、

安政・万延年間(1850前後)にいかなる理由にか傀儡師たちはこの地から去り、その技も消滅したという。

←傀儡師故跡の碑と傀儡師の像。上半身の像で、手前に人形の入った箱を持っている。ぎぎぎ。

15日

○姫路城視察

四十年振りで姫路城城内に入る。400円。むかしむかしに比べると随分下が歩きやすくなっていた。

大天守は修復工事中で、中に入れないが「天空の白鷺」と題して工事中の天守を蔽う構造物から天守の最上層部分を観ることができる(エレベータで昇る。200円)ようになっており、約1時間待ちであった。

←小天守群の背後にあるのが大天守を蔽う構造物。
西の丸へ行き、暗い千間長局の廊下を通って化粧櫓へ。千姫さま関係のパネルなどあり。さらに千姫さまと侍女の人形まであった。夜中コワいであろう。

本来なら県立博物館などにも足を延ばしたいが、台風さまが来ているので新幹線止まるかも、というので午後には姫路を出て、夜にはもうお東京ざます

16日

台風過ぎて午後には風颯々と心地よい天気になったので、もう一度行きたいと思っていた市川・八幡の

○八幡の不知森(しらずの森)

に行ってまいりました。

いわゆる「八幡の藪知らず」という場所で、一辺数十メートルぐらいの小さな森(現在は竹藪)で中央部が凹地になっているが、ここに入ると出てこれなくなる、というので有名である。

その理由については種々説かれているが、主なものを挙げると、

@   平貞盛が将門征伐のとき、奇門遁甲の術を用いたが、そのうちの「死門」を置いたのがこの地である。術を解く際、将門の強い呪力を恐れて貞盛はこの「死門」だけは解かなかった。このためこの地に入ると逃れられなくなったのである。

A   この地は沼地となっていて、将門側の武将6人がこの地で泥人形と化してしまった。その武将らの残存怨念により出られなくなるのである。

B   ここはもと近所の市川八幡社の社地(放生池の跡地と推定される)で「入らずの地」(禁足地)とされていた。その「入らず禁忌」が「入ったら出られなくなる」という伝承に変わったのである。

といったものがある。一応Bが近代科学的なので、市川市の立てた看板などを見ると「これにしよう、みんなも賛成して」という強い意図がみられるところである。

なお、「入ったら出られない」伝承は、十七世紀末に水戸光圀がここに入って妖怪たちのせいで出られなくなってしまい、彼らを説得してようやく解放されたというので全国的に有名になったものらしいが、平安時代からではなくて市川八幡を尊崇していた千葉氏が衰亡した室町期以降に出来たタブーであるらしい。

現在、祠の隣に安政年間の伊勢屋なんとか氏による石碑が立っている。市役所の目の前である。

←こんな藪。

←正面の祠。裏と左手は住宅、右手は駐輪場。

←よくわからぬが○印のあたりにいるのが水戸光圀で、真ん中に座っているやつとか左側のオンナとかが妖かしのモノらしい。

※江戸時代末期の江戸のひと村尾嘉陵の「江戸近郊道しるべ」を閲したところ、次の記述を発見したので付け加えておきます。(25.10.27)

・・・途の南側に、八わたしらずといふ木立あり。四面垣ゆひ廻して、人の立ち入ぬ様にす。うちに少し凹の所あり。入人(いりびと)必ず死すと云。瘴気時として発するが故なるべし。上総のうちにもこヽに同じ様なる所あり。酢をあつく煮立て、それをわらみごにて、まきちらしながら行かば、子細なしと云。

ということですから、「出られない」のではなくて「必ず死ぬ」ようです。酢を煮立てて、それを振り撒けば死なないから出てこれるようです。

○市川八幡社

下総惣社であったとのこと。今日は祭らしく、有志のみなさんが神楽を奏でていて、身体はワクワクした。数十本の銀杏が根のところで束になってしまった天然記念物「千本銀杏」あり。

←市川八幡社拝殿。左手は神楽殿。←千本銀杏たん。

17日

←東京ざます。

23日

野球観戦の合間を縫って、本日は午前中に

○沢蔵司稲荷

江戸時代、沢蔵司(たくぞうす)という僧侶がおったが、これが稲荷の化身で、これを祀るのが沢蔵司稲荷。裏手に「おあな」といわれる霊窟あり。かなりコワい感じのところ(そこだけ涼しいんです)である上、台風かなにかのせいで鳥居がたくさん倒れており、さらにコワい感じになっていた。真昼間というのに背筋寒くなったので逃げるように戻ってきました。霊験あらたかなり。
←「おあな」に向かう道。このあたりでももうかなりコワい。鳥居をくぐって左手を見下ろすと・・・。あわわ。

夕方1800からは 大塚ライブハーツ+にて山崎ハコ「縁、紡ぎうた」with安田裕美を鑑賞してまいりました。

10月12日

宮崎南部調査中

○虚空蔵島

←虚空蔵島の中腹にあった鳥居。この奥に「あ!」というようなものが祀られておりました。教えてしまうともったいので一度観に行ってみて。

○目井津

13日

○宮崎神宮 ・・・ 神武天皇の宮の跡地という。

←結婚式やらお宮参りがたくさんいた。

○宮崎県総合博物館

○外浦 ・・・ 勘合貿易時代の琉球交易船※の出航地であるという。確かに油津以南の海の色、岩の形、沖縄の海を想起させる。
※当時は、堺 ←→ 寧波 の航海は、山口・大内氏の掌握するところで、堺→瀬戸内海→博多→外浦→沖縄(那覇にあらず!)→明と航海したよし。

←このあたりから左側の方に外浦津が広がる。現在ではだいぶん埋め立てられているが、それでも漁港あり。なおこのフェニックス並木の向こう側の海は「回天」の演習場であったよし。

14日

○日南海岸 ・・・ 油津から北は鬼の洗濯岩とかそれはそれですばらしいが、油津から南は一見して沖縄の海かと思うようなギザギザ感のある岸壁と島々である。コバ島もあったよ。お猿さんで有名な幸島(こうじま)もあった。

←幸島。

○都井岬 ・・・ 御崎神社に参拝。「都井」のゆえんを知りたいと思っていたが、神社の由緒書によればもともと「土肥」(とひ)御崎とのこと。土肥は伊豆の地名として名高いが、いにしえは突出した部分をいう一般地名だった可能性がある。なお、佐多(さるた)、日御碕(ひのきさき)とともに「日本三御崎」とされる。なお、馬もたくさんいました。

←崖の中腹(写真だと中央少し右寄り)に社殿あり。←崖の右下はもう海。この沖はたいへんな難所であったという。

○恋浦 ・・・ サーフィンの名所なりという。

○鵜戸神宮 ・・・ ごあいさつがてら寄る。沖縄のテラガマ信仰と類似した海岸洞窟聖地であることを再度確認。浜比嘉のシネリキョ洞窟、普天間宮などと実によく似ている。裏の山上に祖霊神の墓(ウガヤフキアヘズの尊の墓として宮内庁の陵墓参考地となっておる)があるところなど、沖縄の御嶽と同じ型式である。
洞窟の中に作られた神殿こそ、「瑞屋・金屋(みづや・かなや)」であろう。なお「みづや・かなや」は一説には「にらい・かない」の語源ともいうのである。

ついでに愛洲一刀斎の故地も拝んできた。

←左下の赤いのが洞窟神殿の入口。

 

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