沖縄観光記9 (起:平成25年4月7日(日))  目次へ  平成25年1月へ

毎週末忙しいんですわ。いひひひ。

←軽躁状態の間に何かのメッセージを感じ取りたいのだが・・・。

平成25年4月

7日

名護で起きまして、観タマ

終了後、

○国頭・桃原の金満神社

もともと奥間大親という人がいまして、この人は宜野湾で天女と出会い、二人の間に察度王(即位1350)が生まれたということなのですが、その弟が泰期金満(たいきかにまん)といい、奥間大親の実家である奥間に帰郷して、鍛冶屋になった。この鍛冶屋の子孫が、15世紀になりまして伊是名から追われてきた金丸(後の尚円王)をかくまったことがあった。尚円王は即位後、鍛冶屋の次男であった座安正胤(後に三司官となる。国頭馬氏の祖なり)に桃原の地を賜って開拓させたが、その屋敷跡が今の金満神社なり、という。

○辺戸岬

久しぶりで辺戸岬に行きたくなって行ってみました。
寒かった。伊是名・伊平屋が夕日の下に浮かんでおりました。そして北から来た海人たちに畏敬の念を持って見上げられたであろう、安須森の四岳が暮れて行く空の下に聳えていたのであった。(安須森はウタキのところまで登れるらしいのでいずれに登ってみようと思いますよー)

←辺戸岬より望む。真ん中あたりのギザギザが「安須森」(辺戸御嶽)。わたしには四岳に見えるが、「琉球神道記」等では「三山」である、という。

←国頭西海岸にて。何かいいことあるかも。

12日

諸事情(→こちらを参照)ありて博多調査中。

○楊の社跡地 ・・・ 袖の湊のほとりであったことから、江戸時代に博多の町医者某が創建したもの、とのこと。

○冷泉院竜宮寺 ・・・ 祇園駅の近くにあり。いにしえは袖の湊のほとりにあって「浮御堂」と称せられた。貞応元年(1222)、博多湾で捕獲された「人魚」の遺体はここに葬られたという。
飯尾宗祇が博多に来たとき、ここで連歌の催しありという。→ 秋更ぬ 松のはかたの沖津風

←竜宮寺。「三宝大荒神」も祀られてあり。

13日

○宗像大社 ・・・ 福岡在住時代からの御縁で、久しぶりで交通安全お守りをいただきにお詣りす。お祓いの巫女さんかなり不健康そうな感じ。

・高宮(たかみや) ・・・ 沖縄の御嶽、紀州の花の窟などと比較のため、どうしても参拝したかったのである。宗像大社辺津宮の裏手の山にあり、ここに三女神の降りたところと伝わる。社殿等無く、巌境中の「神籬」(ひもろぎ)を神の憑代として拝む形式。原始神道といわれる所以である。

←奥に神籬と厳境あり。

わたくしの考証では、この形式は「海人族」の原始神社なのであろうと思われる。海人族の原始神道の形式を(律令神社形式の影響を受けずに)南方に持ち込んだ沖縄の御嶽信仰ときわめて類似する。一方で、縄文型の原始神社とはやはり相異する面が多いやうに感ずる。

第二宮(ていにぐう)・第三宮(ていさんぐう) ・・・ 三重県伊勢市内の伊弉諾神社・伊弉冉神社の資材を使うてあるよし。

・神宝殿 ・・・ あいかわらず勉強になる。

○警固神社

14日

○宮地嶽神社 ・・・ 今回の福岡調査の最大の目的である。

福岡在住時代には御縁無く、参詣したことが無かった。宗像氏の本拠地、海の見える丘に神功皇后、勝村大神、勝頼大神の三神を祀り、日本最大のしめ縄で名高い神社である。もとの社殿は海から一直線に登ってくる参道の正面にあり、近世・近代の津屋崎海民(津屋崎は北廻り船の寄港地、「津屋崎千軒」の栄華で名高い)の信仰も深かったものと思わる。(現在も初詣客は多いはずだが、西鉄宮地嶽線が廃線となっており、門前町もシャッター街化していたのでさびしいことである。)

←旧本殿あたりから海の方を見る。

鎮座は4世紀と称するが、天武帝の妃の一人が宗像氏(高市皇子の御生母なり)であり、この妃の父・宗像君がこの地に威勢を揮ったと伝えられ、下記の横穴式石室古墳の被葬者に比定されていることから、七世紀には聖地化していたものかと思われる。このころ宗像氏は「道の君」たる宗像三女神を崇め、朝鮮半島との航海を取り仕切る海人族の中心的存在であったはず。・・・そういえば天武帝って大海人皇子とおっしゃったっけ・・・。

←しめ縄でかし。左奥が宮地嶽。

とにかく、現在の拝殿の裏山にあたり、古社のあった宮地嶽の山容を見れば、「あー、これは何か祀らないといけないなー」とすぐに思いますよ。だいたい、「宮地嶽」って「みやとすべき地」の「嶽」ですから、要するに「御嶽」(おたけ・うたき)である。

なお、糸島半島の可也岳も同じような円錐形で、博多湾をはさんで東西に呼応しているわけです。ちなみに「可也」(かや)は、沖縄でいう「気」「京」(けお)、「嘉陽」(かよう)と通じ、霊的な力をいう倭族海人の言葉ならんと推測す。

奥の宮八社あり。

←奥の宮入口

・七福神社

・稲荷神社

・不動神社 ・・・ 江戸時代に山崩れで顕出した巨大横穴式石室古墳に不動尊を祀る社。感動。

・地蔵尊(社)

・淡島神社(恋の社)

・濡髪神社

・三宝荒神社 ・・・ ちゃんとお釜と竈が祀ってあった。

・薬師神社

このほか、宮地嶽山頂に古社御来光拝所あり。

←宮地嶽の山容。

←山頂にある古社。

門前町で食った松が枝餅(梅が枝餅にヨモギを入れたもの)美味かった。

19日

しごとにて「第29回宮古島トライアスロン大会」開会式のお手伝いに。ほとんど何もせずに選手用に出される食い物をたらふく食い、さらに「おとおり」によりボロボロに。体重増甚だし。

20日

頭痛。

座間味島へ。ヘリに乗せてもらう。しごとでなければウキウキするのでしょうが、しごとだからなー。帰りの船に乗る前に高月山展望台へ。阿護の海美しい。

←ヘリ子ちゃん

←高月山展望台から。向こう側は渡嘉敷島。岩礁と岩礁の間の狭い海を方言で「シル」という。まさに「瀬戸」(せと)の音韻変化である。

那覇・泊港到着。しごと終わったのでりっかりっか湯へ。出てきたらひどい雨であった。

21日

十時まで寝てたら頭痛治った。

○東浜マリンタウン ・・・ 与那原と西原の間にある海浜公園。須久名山や佐敷のあたりがよく見えた。与那原で聞得大君新降り(ちーふちんあーらおり)の際の聖地や与那原の御嶽などを探りたかったのだが、今日は午後から用務があるので次回以降とする。

←真ん中の突出しが「須久名山」。斎場嶽(さやはたけ・セーファウタキ)と並称される聖地である。海軍の要塞になっていたらしい。

○西原の塔・西原役場壕 ・・・ 首里の東方にあたる西原は沖縄戦の最激戦地の一である。雲玉森攻防戦など彼我両軍の勇猛すさまじい。

この激戦中に西原村民(当時1万弱)は半数以上が戦死しており(民間人の死亡率が50%超ですよ)、その霊魂と、日露戦争以来の同村出身者の英霊、さらに西原でで戦死した兵士らを祀るのが「西原の塔」である。全滅世帯率4分の1、というのもすさまじい。

西原村役場が重要書類や戦時公債などを保管した壕が、復帰後、附近の工事の際に発掘されたのが「役場壕」。表向き崖葬墓のように見せかけたため米軍には見つからなかった。

←役場壕。こちらは工事で発掘された(穴をあけてしまった)側。本来の正面は右側で、確かに墓地に見える。

○護国神社 ・・・ 軍民の壮烈に思いを致し粛然としたので、そういえば春季例大祭なのでお詣りに行った。

このあと、県立武道館にて日本青年会議所沖縄地区協議会主催フォーラム「140万県民で考える沖縄観光の未来」に行ってきた。知っている人が講師で来てたので。聞きながら寝る。

←武道館裏にある「奇石ニービ石」。富山県に同じ種類の石がある、とのことだが、ぶつぶつが浮き出したような変な石である。手前のは男根形の陽石として崇拝されたものか。

陽石を見たあと、小録方面に歩いて

○漫湖湿原

←「漫湖湿原」と口にするとそれだけで不思議ににやにやしてしまうが・・・。街の中にあるくせにちゃんと白鳥とかいました。向こう側の台地型になっている地形は豊見城(とよみぐすく)。

○真玉橋(まだんばし)

を通って帰ってまいりました。真玉橋公民館で「重修真玉橋碑」を見ていたら、真玉おやじ(仮称)が「公民館の中にもっと資料があるよ、あるよ」と声をかけてきたので見せてくれるのかと思ったら「平日しか開いてないんだよ」と言ってました。

←復元された真玉橋の橋梁。もと17世紀に木橋が作られ、18世紀にこういうアーチ型がいくつも並んだ石橋となった(19世紀に再架橋)。漫湖湖畔の美しい橋であったが沖縄戦で日本軍が遅滞行動のために破壊。戦後コンクリート架橋工事の際、土中から遺構が出てきたので、こういうアーチが両岸で合わせて三つ復原されている。

←「重修真玉橋碑」。真玉橋を二回目に修復(上記の19世紀の架橋の際)したときに、前回(18世紀)の修復碑の末尾に再修復した趣意を書き込んだもの。ただしこれも沖縄戦で破壊されて復原されたもの。ちょうどこの写真を撮っていたら背後から真玉おやじが近づいてきたのだ。

今日は涼しかった。

22日

本日は天久聖現寺から天久の旧海岸線をふらふらと歩いて帰ってきた。墓地に月の影凄かった。途中、ウタキ、拝所もあり、それと知らずに足を踏み入れたので背筋に怖気走った。また明るいときに来ます。

←天久の森の月。

24日

「今月は観光が足りておらんぞ!」

と我が心の中のダイモーンに叱られたので、今日は会社帰りに

○銘刈自然の森

に行ってみようとしました。拝所とかウタキとかもあるらしい。

しかし入口を探しているうちに日が暮れ、ようやく入口を探し当てましたが森が深くてコワそうなので、入口近くの拝所におまいりして今日のところはこれぐらいでカンベンして引き上げてきてやったぜ。

←拝所。げげげ。この左方向に浮浪者のテントらしきものあり。(沖縄に浮浪者はいない、というのは「都市伝説」です。そこそこいます)

28日

お東京から帰ってまいりました。「屈辱の日」で町中本土への怒りで燃えているかと思ったが何の変化もないみたい。

日暮れがお東京より一時間以上遅いので、帰ってきてからももったいないので観光に勤しむ。

○ウフンミウタキ(西原・掛久保)・・・「由来記」に記載の無い御嶽であるが、参ってみて驚いた。西に入日、東にあがる日を拝む清爽な丘である。国道の横にこんな空間があるなんて。
近所の人にじろじろ見られたが、声をかけられたら変に誤魔化してもしようがないので正直に「ウタキマニアなんです!」と言おうと思って身構えたが別に怪しんでないみたいで声はかけられなかった。というか別にじろじろ見ていたわけでもないと思います。声が聞こえただけで。

○吉の浦運動公園・・・裏に浜あり、これが「おもろそうし」にいう「良しの浦」なりという。中城出身の芥川賞作家・大城立裕の詩碑あり。

←知念半島方面を望む。

○与那原の御殿山(おどぅんやま)・親川(うえがー)・・・御殿山は「由来記」の「濱の御殿 神名アマオレツカサ」である。

←御殿山。

この「御殿山」は今ではどぶの臭いのする小さな祠ですが、戦前は宮が設けられていたとのこと。この地には、次の三つの伝承が重なっておるのです。

@   天女伝説 ・・・与那原の海辺にむかし天女が降り、誰かとの間にコドモができた、という伝説。(宜野湾・大山の「森の川」にも天女降下伝説があり、肝冷斎思へらく、王家の家系伝説として浦添王朝=大山、佐敷按司=与那原のそれぞれ天女伝説となったかと思うが如何か)

「琉球国由来記」(巻十三)

「浜の御殿」・・・ 昔、この浜の御殿へ、天女天降りし給ひたるとなり。

「オヤガワ」(井)・・・ 浜の御殿へ、天降し給ふ、天女之御子、産井(うぶい)の由、と伝と也。

ただし、天女伝説は隣村の宮城村(現在南風原町内)にもある。

A   歴史的事実としての聞得大君新降り儀礼における重要な巡礼地

・・・聞得大君新降り(ちーふじんあーらおり。王家の女性が新たに聞得大君に就任したときの島尻巡歴)の際、

爰(ここ。←浜の御殿のこと)に御下り、オヤガワの水をお撫で被召(召される)なり。

とされる。「水を御撫で」とは与那原祝女(よなばるのろ)らにより親川の井水を額に塗られ、聖別されることを言う。

このとき、浜の御殿には「御屋敷」が設けられることとなっており、儀礼の次第、御屋敷の結構等については「琉球国由来記」に詳しい。(今は省略するが、「御小便所」が大君の分、女御召付(女性従者)の分、親方部(男性高級従者)の分と三つ作られることになっているのも何だかゆかしいことである。)

B   @(あるいはAにも)どれほど関連するのか不詳であるが、与那原の「友盛の嶽御イベ」(三津御嶽。与那原の北西部にあり)に葬られたいにしえの悲劇の「聞得大君」が「浜の御殿」に隠棲していたという。

この悲しい伝説は「由来記」にもありますが、漢文版が「遺老説伝」にございますので、そちらで御紹介することといたしましょう。・・・→こちらへ

←親川。建物の中は泉。

○与那原の街並み ・・・古い港町である。少しはその風情も残しているが、下水の未整備なのであろうどぶの臭いが甚だしく、それが何やら懐かしい感じ。軽便鉄道与那原線の終着駅で、昭和天皇も皇太子時代にお見えになっているんですよ。

そのあと南風原の「うちなー湯」に寄って帰ってきました。「うちなー湯」はごちゃごちゃとした昔のサウナ型のスーパー銭湯ですがそれが何やら懐かしい感じ。

29日

今日もつらい観光の日々。疲れましたー。

○宜野座総合運動場 ・・・ハンチソのキャンプ地として名高い。場内にある村立博物館を観たくて行ったのですが「月曜休館」のため休館しておりました。しかたないので野球場で宜野座高校と具志川高校の練習試合を30分ぐらい見る。暑い。

○漢那森林公園 ・・・森林公園ということになっておりますが、ここは漢那のウェーアタイ遺跡(ウェーアタイは「上・アタイ」でしょう。「アタイ」は「当たり」、要するに海上からみて「目当て」にすることのできる海辺地標(かいへんちひょう。要するにランドマーク)のこと)として貝塚とか陶器とか出ている遺跡であり、なにより「ヨリアゲ森」という「琉球国由来記」(巻十五)記載の御嶽で、1912年(ちょうど百年前です)まで使われていた風葬墓が遺されているという聖地なのである。

・漢那ノロの馬井(まーがー) ・・・ノロの乗馬を洗うた泉。

・ヨリアゲ御嶽@ ・・・国道331号の脇にある小山である。いかにも「ウタキ」っぽい森になっている。散策路をたどって山中に入ると風葬墓あり。洞窟内に今も拝めるようになっているようであるが、途中あまりにクモの巣多く、クモの巣はいいんですが巣を破いたときに背中にクモが落ちてくるのイヤなので途中で進むのを断念。風葬墓以外にもガマやガジュマルの巨木があるのですが、あまりに草と倒木多く近づくことさえできず。森林公園というので「じゃあいいんだろう」と思って入り込んでいるのですが、よく考えたら御嶽なのでほんとは「入らず」の禁忌があったはずなので、地元の人たちは整備せずに無意識的に人を近づけてないのかとも思われた。

←風葬墓洞穴。右下の方に見える石箱の中に拝所みたいなものがあり、そこに木棺があるらしい。今も男女数百体分の白骨が遺されているもよう。

こちらが「由来記」にいう、

ヨリアゲ森 二御前 

 壹御前、神名、真南風のわらいづかさの御いべ

 壹御前、神名、おらうせなでるづかさの御いべ

と思われる。

・ヨリアゲ御嶽A ・・・@より奥にあり、樋川が流れ、「宜野座水道発祥の地」として記念に石製タンク(1938製という)が遺されており、「長寿の森」の碑のある森である。

ここもクモの巣すごく、また道が草に埋もれてしまっているので途中で探索を断念したが、何らかの礼拝者が来ているものと思われて、拝所に石刻記号、また岩に鏡が埋め込んであるなど、変なモノがいくつかありました。こちらは

ヨリアゲ森

 神名、かわづかさの御いべ

である(こちらはそう説明板に書いてあった)。

以上の三か所(二御前を二か所と数える)については、

麥大祭の時、仙香、花米九合完(づつ)、麥神酒二器完、同村(漢那村)百姓中供之(これを供う)。漢那巫にて祭祀なり。

とされておる。

←樋川。真ん中あたりに見える橋を渡ってげげげ森の中に入っていったのである。

○久志

・若按司墓 ・・・ 400年ぐらい前の久志の若按司さまのお墓という。北山王の関係者らしい。

「由来記」の「マヒラテリ嶽」に勝手に比定。(同御嶽の神名が「わかつかさの御イベ」なので、「若按司」を神として祀っているのであろうと思われるからである。)

・慰霊塔 ・・・ 住民は戦争に巻き込まれていないので、軍人のみ。

・観音堂 ・・・ 観音堂は昭和戦後の再建ということであるが古拙愛すべき小建造物である。隣のガジュマルの蔭に拝所あり。さらに、「上クムイ・下クムイ」という散策路らしきものあり(途中草に埋もれて断続しているが、橋らしきものもあった)。「上の汲む井・下の汲む井」ではなかろうか。

このあたり、説明板によれば、久志の「アタイ」であり、古島(元の集落跡)ということであるから御嶽であろう。「由来記」にいう「ミアゲ森」ではないかと勝手に比定(海辺地標たる「アタイ」は海上からの「見上げ森」であるので)。

←観音堂。小さくてかわゆい。

←観音堂右手の茂みの中に小さな石の家型祠あり。コロポックルちゃんが住んでいたのかちら。

○辺野古

その後、どうしても辺野古に行きたくなって、辺野古の漁港の防波堤の先っぽにある「龍宮神」の祀られている小島まで行ってみた。いかにも「へのこ」な岩もあるので、この小島が「あしゃぎ」(海から来た神の上陸前の足休め場所)だったのではなかろうか。

戦後、米国民政府のアップル中佐が都市計画を差配したので「アップルタウン」と呼ばれる辺野古の町にも少し入ってみたが、ウタキとかわからないので帰ってきました。

←辺野古漁港。

←漁港出口あたりの岩山。左側に竜宮神を祀る祠あり。右の方の岩はなんとなく「へのこ」ぽい。

←上の岩山の左下あたりから、キャンプシュワブ方面。このあたりの海(さらに沖の方)にヘリ基地を作りまちゅ。

「基地とゴミは持ち帰りましょう」という気の利いた?看板があった。辺野古はもともと基地の町だからねー。

○北谷アメリカ村

ライブハウス・モッズにて「カラビサ劇場千秋楽」を鑑賞す。女性二人組のアコースティック・デュオというやつであるが、結成10年、そこそこ技量あるアーチストでありますが、このたび解散。彼女らの沖縄最後のライブということで、20時から23時過ぎまでやっていたので(おそらく更に続いていたと思われる)、疲れた。ということで、今日は「日録」はさぼって更新せず。

 

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