フィールドワーク録13 (起:平成25年10月19日(土))  目次へ  平成25年7月〜10月へ

←ここまででもいいから黒潮を遡って帰りたいよう。

10月19日

○恐山菩提寺 ・・・ 「おそれ」とは山中の「宇曾利」(うそり)の湖のことであり、アイヌ語源なりという。写真大量に撮ってきたのでコワいけどアップするので待たれたい。なお後世・肝冷斎誕生の地でもある。山岳信仰の対象であった恐山が、北前船などの発展により江戸にも紹介されたのは、「和漢三才図会」の記述が早い例だという。

←寺山修司先生の導きにてついに恐山へ。硫黄噴き出す「地獄」一帯。遠くに宇曾利の湖。回りの八蓮山。こういうところから肝冷斎が再生したのである。

←風車の音ばかりしゅうしゅうと・・・。

←地蔵菩薩!←地蔵菩薩!(宿坊玄関)

←南無地蔵願王尊。

まだまだ追加するよー。

←浄土ヶ浜にて。おらといっしょにお浄土さ行くだッ!というお招きくださる感じ。だいぶ治った。帰ってまたヤラひれなければしばらくもつかも、だが・・・。

20日

○佐井 ・・・ 北前船の町。赤十字の人が。

○仏が浦 ・・・ もと「ほとけウタ」といい、「ウタ」はアイヌ語の「浜」のことなり、とぞ。

←仏が浦。こんなのが広がっている。一見の価値はあり。

←恐山奥ノ院のような位置づけにあり、地蔵堂あり。地蔵堂の隣に、より古いものであろうと思われる岩陰地蔵があったが、特に右側のものなどただのまるい自然石に赤い布がかぶせてあるだけ。陽物の形はしておらなんだが沖縄の「ビジュル信仰」にフンイキきわめて似る。海人族なのだ。

○大間崎 ・・・ 本州最北端。マグロ一本釣り。

26日

○雑司ヶ谷墓地 ・・・ 雨上がり、冷え冷えとしていた。

○雑司ヶ谷旧宣教師館 ・・・ 米人宣教師マッケーレブ、住みておったとのこと。

←中も入れる。ベッドとか展示物とかあり。左下の方に「少女像」あり。平和を祈っているらしい。

11月3日

○佐那神社 ・・・ 伊勢国多気郡に鎮座します式内社である。祭神・天手力男命で既に古事記に社名の見えるということである。社内、手力松、夫婦杉のほか、「おだやか様」と称し「撫でるとおだやかになる」と説明されていたが、明らかに男性器を象ったとみられる石あり。

←佐那神社。←おだやか様(右)。もとは本殿内にあったという。

神社裏の佐奈小学校正門跡に「孝子・嘉七之碑」あり。父母を奉じて自らの衣食を節して孝養を尽くし、妻子を持てば孝行がおろそかになるとて娶らず、というので紀州藩より表彰された寛政年間の五桂の嘉七という孝子を大正七年に顕彰したものである。

←孝子嘉七之碑

○水口城・資料館 ・・・ 滋賀県甲賀市。「二条城の試作品」というべき平城である。入部していた加藤家が加藤嘉明家であるというのは、資料館で勉強してはじめて知った。いろいろ自分で確認せねばすとんと落ちないことが多いものでござる。
←現在碑が建っているのは本丸出丸(本丸は水口高校グラウンドとなっている)に入るところ。橋の向こうが本丸出丸で建物は資料館(復元櫓ではない)。本丸が将軍の宿舎となるべきところで本丸出丸はそこへの入口。別に二の丸があり、そちらが加藤家の城であった。

9日

○大宮氷川神社 ・・・ 武蔵一宮の。

○さいたま市立博物館 ・・・ 岩槻城主特集をやっていた。

23日

ひさしぶりで沖縄調査中。

○普天間宮・洞穴

○金武観音堂

○宜野座・松田 ・・・ 沖縄の村落に「あるべきもの」が一揃えある集落であった。

・メーヌ御嶽

・クシヌ御嶽

・神アサギ

・メーヌガー洞・坊主墓

・クシ墓(風葬洞) 10世紀〜

・ウーノメー(風葬洞)

・アシビナー

・赤マチャー

24日

○備瀬のフクギ並木

○伊江島

←伊江島到着。

←島の空はすばらしい。

○伊波野の石くびり

←「石くびり」というのは「石を敷いたくびれ道(細い谷道)」というぐらいの意味らしいです。左手あがっていくと伊波野展望所あり。もとは「モー」であろう。

○嵐山展望所

←嵐山展望所より羽地内海を望む。

12月8日

寒いよー。寒いので海を観に行くことにした。

○久里浜 

・夫婦橋 ・・・ 人身御供のむすめを埋めたという。

・ペリー提督上陸記念碑

○東京湾 ・・・ 伊豆大島がよく見えた。内房のリアス式海岸といい、海人族(安房は木氏系海人が支配階層らしいが)はこの景観を見て、「こりゃいいや、うっしっしー」と喜んだことでありましょう。

←三浦半島の剣崎の向こうに伊豆大島ちゃん。

○金谷

・浜金谷神社

・鉄尊権現 ・・・ 境内に15世紀に海中より引き上げられた鋳鉄鏡(真ん中あたりで二つの半円に折れているが、総重量1.5トンあり)を鉄尊権現として祀る。

←鉄尊権現さま。

・神社裏に沖縄の御嶽みたいな感じの登り口あり。靱帯断裂しないように注意深く登ると、神社拝殿の裏山に昇った。そこには洞穴があってその中に・・・。ちょっとコワいのでここまで。実際見に行ってみるといいと思いますよ。
←拝殿奥に裏山あり。これが神体か。なお撮影者の背後はもとはすぐ海であった(今は国道等がある)。
←この裏山に裏から登れるのである。調べ人なのでつい昇ってしまったところ・・・(以下現地で確認されたい)。

○鋸山展望台

12月22日

寒い。今日は冬至のよし。

○極楽水 ・・・ 東京都文京区内にあり。

12月23日

午前中は皇居へ。一般参賀で「ばんざい」を心行くまで叫んでまいりました。

←二重橋

午後は千葉県東金の「将門伝説」の地へ。

将門のおやじ良将(良持とも)は、妻の桔梗の上の身籠った子が「いずれ謀叛人になる」と占われたので、桔梗の上を霞ヶ浦に流したところ、九十九里浜に流れ着いて、地元民の助けを得て将門さまを産んだ。地元民はその功績により、後に将門さまから「布留川」の姓を賜ったという。

○帝立山妙善寺 ・・・ このあたりの地名は「御門」。

←妙善寺。

○将門稲荷

○厳島神社

○えな塚 ・・・ このあたりの地名は「殿廻」。首塚、胴塚に続いて、ついに将門さまのえな塚にも到達。

○産前橋 ・・・ この橋(いまは橋は無い)のあたりでお産をしたという。ただし、近世の「三枚橋」の訛言ならん。

○水神社 ・・・ たくさんあった。近世の用水路を祀るものであったであろう。

四時間歩き続けたので疲れた。久しぶりにこんなに歩いたのである。

12月28日

年末、オモテのシゴトが終わったところで、オヤカタさまのところに赴くと、オヤカタさまから

「まずはこの書を読め」

と和綴じの本を渡された。表紙には「三宅記」とあり。

・・・明治四年に平安時代から三宅島の神人、庄屋、島役人を務めてきた壬生家の文書の中から発見されたものであり、「三宅記」あるいは「島々縁起」「三嶋明神縁起」「白浜明神縁起」などとも呼ばれる、とのこと。

「読め」というので読んでみました。その内容は、かいつまんでいうと、

―――天竺に薬師如来の申し子である天竺王子という方がおられたのだが、父王に追われて日本国に流れてきた。丹波?で翁に出会うが、翁は自ら「我は天の児屋根の尊で、三百何十歳」になる」と名乗り、王子は日本で島の主になるお方である、と言うて、自らの子どもである「見る目」「剣の御子」「若宮」を付けてくれた。(この三神は「眷属神」と呼ばれる。)

「見る目」は姉で計略等を立てて弟たちに指図するが、弟宮たちは姉の言いなりになって力仕事みたいなものばかりしているロボット的な方がたである。

天竺王子はその後、天竺へ戻っておやじと仲直りしたりした後、伊豆に至り、その地で富士山にいます神(オオヤマヅミか)から、「日の本にはもう余った土地は無いから、天竺王子は自ら島を作ってそこに住まえ」と言われ、そこで見る目が差配して弟御子らと雇った天の雷、水の雷らの協力を得て、

七日七夜に十の島を焼き出だしたまう

のが、伊豆の十島(初島、大島、利島、式根島、新島、神津島、三宅島、御蔵島、八丈島、八丈小島、青ケ島)である。

考安天皇のころのことという。

天竺王子はそのうちの五つの島に八人の后を置き、あわせて二十何人やらの御子神を得たが、このうち四人の后(箱根芦ノ湖の湖神のムスメという)と八人の御子神が三宅にあった。天竺王子は事代主神だったので、ご本人を合わせて十二になるので、これが三宅島の十二式内社に祀られている、のだそうでございます。

推古女帝のころ、事代主神はオオヤマヅミの依頼を受けて、伊豆の国に飛来した。このとき鎮座したのが下田の白浜神社で、連れて行かれたのは正后ではないので、これはいろいろ愛憎の伝説もあります。事代主神はさらに伊豆の国三嶋に遷移し、今の三嶋大社になったのである。

・・・・・・・・・・・・・・・

オヤカタさまは、

「これよりすぐに船で出で立ち、三宅島内の神社(今では噴火等の影響により式内社は遷移したり合祀されたり、で六つか七つぐらいしか確認できないみたいですが)を調査してまいれ」

との密命である。

「えー、この寒いのに調査ですか?」

と思ったが、われらの生殺与奪の権限を持つオヤカタさまの御命令じゃ。

「あい、でっちゅ」

と愛想よく返事して、ガマンして調査に入ることにしました。アネゴさまから旅費を戴いて、東京竹芝港から出帆。

27日夜に竹芝港を出て、今朝早く三宅島に到着する予定だったのですが、桟橋に着くのは危険である、という判断で素通りして八丈島へ。八丈島からそのまま戻って来て、昼間は大丈夫だ、というので午後二時過ぎにようやく三宅島に上陸。八丈と御蔵・三宅の間には黒潮本流があるので、約5年ぐらい前に八丈に行ったときに、帰りの船で往生した(過去にほとんど船酔いというものをしたことがないのですが、その数少ない経験である)ことがある。そこで今回は八丈でなく三宅を調査対象に狙ったのですが、ヤラれました。やはり黒潮本流はすごいですね。

午後二時過ぎ到着なので、本日の調査は以下どまり。明日の二時までしか時間も無いし十二神社の現状を確認するという野望は潰えた。オヤカタさま(※)に叱られるぞー、と思えば、絶望感ばかりがひしひしと。

※オヤカタさま ← こう書くとかっこいいが、自分の心の中の探求心のようなもの、を気恥ずかしいのでこのように表現しているもの、と理解すれば、ゲンダイ人のみなさまにも御理解いただけるであろうか。未開人や文化の古層段階での記録には、このような例は多いのである。肝冷斎の心も古層段階なので、自己分析が出来ていないのであろう。

○あかこっこ館

○為朝打ち抜き岩(遠望)

○富賀(とが)神社 ・・・ 式内・阿米津和気(あめつわけ)命神社。アメツワケ=天地分=事代主神(=天竺王子)の古墳とも伝う神奈備山の麓にあり(ただし原初は雄山(島中央部の主火山)の中腹にあったといい、さらに錆浜近くの荒島神社の地に遷った後、現在地に移転したとのこと)。

境内に見る目、剣の宮、若宮、および壬生氏の祖神を祀る摂社あり。裏山の本殿への昇り階段は鎖で閉ざされていたが、神さびていますことこの上無し。

参拝後、裏山のさらに裏側の海岸に回る。富賀海岸というて磯釣りで有名なよし。

神社の山を隔てて逆側に鳥居がぽつねんと立っていたが、そこから西の方を見晴るかせば、激しく波の打ち寄せる岸の彼方に、左(南)から、御蔵島、三本岩(←岩礁なり)、神津島、式根島、新島、伊豆半島・富士山、利島、伊豆大島と見えた。海人族なら「たくさん島があってうれしいでちゅう、うっしっしー」と喜んだに違いない。

なお、富賀神社は、聖なる岩礁である三本岳と島の中央火山である雄山の間にあって、両者の遥拝地(お通しウタキ)であった、ともいう。

←富賀神社(表)←裏側(海側)←左の鳥居のあたりから三本岳を望む。

←三本岳(左下の方)

○御差神社 ・・・ 剣の御子の神剣を洗いしところという。この「剣」とは、溶岩流により出来た岩盤(「錆」)のことである、とも。

○荒島神社 ・・・ 富賀神社の古社地という。雄山と三本岩の間にあるという点で、地理景観は同じい。以前このあたりにあった集落が、古い噴火災害により富賀の集落に移動した、ということなのであろう。

○為朝袂石 ・・・ 為朝さまがたもとに入れていて、座るときに床几の代わりに使った石という。「英雄の三宅島に遺した唯一の史跡」だそうである。なお、袂石のかたわらに観音様が何体か祀られてあったが由緒不明。

○御笏神社 ・・・ 式内・佐岐多麻比刀iさきたまひめ)命神社。サキタマヒメは芦ノ湖の三人娘の三女という。もとはもっと東の「かまつけ」というところに在ったそうであるが、火山災害を予知?して明治初期に島役所裏の現在地に鎮座したよし(故地は現在では溶岩の下である)。だいぶ暗かったのでちょっとコワかった。

なお、無用のことながら。「ひめ」の「め」を表している「刀v(ビ)字は、「羊」の鳴き声を表わす。今の字書をみると「び」という音になっておりますが、もともと「メエ」と読むべきなのである。

○島役所跡 ・・・ 今も現住ということであるが、藁ぶきの屋根などどうやって手入れしているのであろうか。屋敷前にビャクシンの巨木あり。「東京最大」とのこと。

12月29日

三宅島内調査続行。

○后(きさい)神社 ・・・ 式内・伊賀牟比刀iいがむひめ)神社。三后の長女であられるというが、もとは「入海」(いがい=海に入水したるイケニエ)ではないかといもいわれる。伊ケ谷漁港の先の崖上に后神社、長根八幡神社の拝殿を発見したときは、たいへんうれしかった。達成感あり。なお神社境内に石祠あって、その中に異形の火山弾が祀られてあった。これが本体サマか。

←手前には伊ケ谷漁港が広がる。

○御祭(ごさい)神社 ・・・ 薬師堂のかたわらにあり。神威ビシビシとして、千古の森が背後に広がってあった。裏山は「入らず」禁忌ありというが、まさにそれによってこの自然が保たれてきたかと思うと、先人らの思いに慄然とした。「みとの口の大后」を祀る、ともいう。

←裏山は一晩過ごしたら白髪となりニンゲンとしての記憶が失われるレベルの深い森。

○椎取神社 ・・・ 式内・志理太宜(しりたき)神社。本来、「湿」(しとり)とも「しりたき」(火山関係の名前ならん)ともいうが、平成12年の噴火溶岩流で埋もれた旧拝殿と鳥居が頭だけ出して残されている。今は新たな拝殿があるが、それを通り抜けて奥に行くと、巨大な火山岩の岩陰に、沖縄ウタキ的元初礼拝施設も設けられてあった。これは感動するよ。

←下の方にちょっと出てるのが鳥居の上部。奥に拝殿。

←斎場御嶽三庫裡型に歪んだ火山岩の陰に祀られてあった奥の宮。夜中来たら白髪化。

○二宮神社 ・・・ 坪田にあり。后神のうち次女にあたる伊波乃比刀iいわのひめ)とその娘宮の二柱を祀るゆえに「二宮」というた、とのことだが、本来この島の「一宮」は雄山の山体であったはずで、各集落ごとに氏神としての「二宮」があったものと思われる。「岩のひめ」の本体は村裏にある溶岩洞窟内の石(「かんのん」)ともいう。

以上、神社総数は六まで増えたが、南子宮(なんごのみや。式内・南子神社。なんご=なご=和=名護である)は農作業中のババアに教えてもらうなどしたが、とうとう発見できず。オヤカタさまに叱られるよう。為朝神社も発見できず。アネゴに叱られるよう。

○大路池 ・・・ 2500年前の噴火口が池になったもの。火口崖が善く見えた。

○メガネ岩 ・・・ 1962年噴火で阿古集落が壊滅。そのあたりの海岸線にあります。

←もとは右側にもメガネがあって二つ揃っていたそうでうすが、伊勢湾台風で右側は崩れたとのこと。

○井上正徹腰掛岩 ・・・ 神道・禊教を唱導し、幕府に容れられずして流罪になった井上正徹は当初の阿古集落に配流されておったが、その学識を知られて当時伊ケ谷にあった島役所から呼び出しを受け、伊ケ谷に住んで役所を手伝うよう命ぜられた。しかし彼には水汲み女・お初との関係があり、その愛情を断ちきれず、阿古から山を越えて伊ケ谷まで通ったという。雨乞いにも成功している。いろいろ超人的。伊ケ谷までの途中、腰かけて遠く江戸の方を見たのが腰かけ石である。

○生島新五郎墓 ・・・ 絵島・生島事件のひと。

○竹内式部墓 ・・・ 明暦事件のひと。

○サタドー岬 ・・・ 島の東側の岬である。断崖すさまじい。「サタドー」は梵語の「地獄」の意である、とも、「沙汰道」である、ともいうそうだが、海人族言葉の「さ(る)だ」=岬、であるから、それに「堂」は「洞」でも引っ付けて「ドウ岬」の意の「サタドー」にさらに地名用語の「岬」を引っ付けただけであろう。

←サタドーから南の方御蔵島を望む。

○七島展望台 ・・・ 雄山の風景の雄大なるに驚く。でかい島である。風が強くてたまらんかった。

今日は富士山がよく見えた。日は射しておったが、風強く寒かった。

←右下に富士山。

 

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