フィールドワーク録20−2 (起:令和元年5月1日(水))  目次へ  平成31年1月〜4月へ

サボテンのように粘り強く生きよう。

5月1日(水) ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

天皇陛下御即位おめでとうございます。本日はよみうりランド近くにある中世城郭・小澤城へ。

鎌倉幕府開幕以降、小田原北条氏滅亡まで、中世関東史に名高い名城です。数次にわたる分倍河原合戦や武田・北条の三増合戦に、つねに南関東側の基軸城郭と位置付けられ、その都度難攻不落を誇りました。当時は北側斜面の麓まで多摩川が迫っていたそうです。

中央のふくらみのあたりに「小沢城跡」の碑が建っています。ただし城郭としてはこのあたりはもうはずれだったのでは・・・。

馬場あととされる平たん部。周囲は切り立った崖である。

黄色いところが城郭部。青い線は空堀あと。赤は現在の通路。上の上の写真はこの写真の左の外側ぐらい、上の写真は中央少し右のまわりが白くなった舌状の部分です。

5月2日(木)・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

あれ?ここはどこや?

〇福岡市の今宿古墳群です。周船寺周辺に前方後円墳が12ぐらいあるらしいんですが、そのうち七つが国指定史跡になっています。そのうち六つまで歩いて回ってきたんです。

〇宮崎安貞書斎 ・・・ 江戸時代の農学者の方です。宮崎市定さんの方ではありません。

5月3日(金)・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

〇原田・五郎丸古墳、筑紫神社

以下、続報を待て。

5月12日(日)・・・・・・・・・・・・・・・・・・

多忙なる時間を割いて、フィールドワークだ。人生の目的を昨日また一つ失ったし。

〇湯島聖堂へ。

人が多かった。「宥座の器」のでかいのが出来てました。

〇野田市縄文遺跡

このあたり古東京湾からの入り江が台地の間に入り組んでいたということで、縄文遺跡があちこちにあります。新橋台U遺跡。
こちらは西金橋遺跡。上の畑地に竪穴住居複数が発見されたという。

ここでは石器類が尊敬されていることが判明する。野田市教育委員会が建てた標識なんですが・・・。

5月19日(日)・・・・・・・・・・・・・・・

昼間は新宿区の漱石山房記念館に行ってみた。

夏目漱石終焉の地です。生誕の地は近くに別にあります。

空襲で焼失した漱石山房の書斎を復元したものだそうです。なお蔵書類は東北大学が持っているとのことで、何故かと思ったら戦中、東北大の学長だった小宮豊隆が引き取ったので戦災を免れたという。

そのほか、奧さんとの関係、コドモとの関係、弟子たちの人間像など、あんまり美談でないものを曖昧模糊にいい感じにして解説されていた。裏に「猫塚」あり。

6月1日(土)・・・・・・・・・・・・・・・

多忙なる観タマの合間を縫って、横須賀へ。

〇夏島貝塚 ・・・ かつての景勝地、伊藤博文の別荘もあった夏島で、戦後すぐに明治大学が発掘調査したら、縄文早期の貝塚が発見され、出土した穀物などを当時の最新技法であった炭素年代測定にかけたところ、「9500年前」という測定値が出てしまい、大きな問題になった。今でこそ縄文時代は一万年以上前、人類文明は数万年、は当たり前ですが、当時は文明ができたのは紀元前3000年で、日本の文明は四大文明からの影響で作られたはず、だったので、困ってしまったらしいんです。

夏島。右の隅の白いものが「大日本帝国憲法草案起草の地」の碑。ああ、縄文時代史や憲法は塗り替わっても、「日本国憲法九条」だけは不磨の大典なのだという・・・。
こんなのです。大正時代に伊藤巳代治らが発起人となって作られた。敷石の数が憲法の条数と同じ、とかいろいろ凝っているみたいです。

6月15日(土)・・・・・・・・・・

仙台中止らしいんで、今日は午後まで東京で時間つぶしや。
〇東京国立博物館 ・・・ 特別展も無いので本館の常設展をじっくり見て来ました。とはいえ体調悪いのでなんどもソファーで寝てしまう。

これはなんじゃ? 密教コーナーにあった父母仏合体像です。この二仏の接合より多数の仏が生み出されるのじゃ!制作場所はわからないそうですが、チベット中部か、とのこと。ここは大抵のものが写真撮影可なのでついつい撮ってしまう。
右側がアイヌ刀である。かっこいい。この間、アイヌの妖刀イペタムについて調べていたのだが文献ではその大きさとか質感とかイメージできないが、実物みるとなるほど、と思えますね。さらに手にすることが出来たら・・・切れ味が試せたら・・・ひっひっひ・・・(奥の方は儀礼用の「へら」)
考古学コーナー。最大銅鐸美しい。近くに銅鐸の見本があって「鳴らしてみましょう」と書いてあるので、外人のコドモに鳴らせ方教えたらオモシロがって鳴らしまくってました。
〇東京都美術館 ・・・クリムト展というのをやっているというので行ってみました。1600円とはツラいが・・・。「クリムト」とか「ウィーン分離派」とか「エゴンシーレ」とか、かっこいいコトバを三十年以上前にアヴァンギャルドがなんたらかんたらという本で読んだ記憶がありました。生涯結婚してないがコドモは11人(14人かも)確認され「子どもたちやその母となった女性との関係がクリムトに生死を見つめさせその作品への」なんやらかんやらとか、心の支えになった女性(弟のヨメの妹)とは「プラトニックな関係だったとされていますが近年の研究では一時期深い関係にあったようです」(原文ママ)なにやらかんやらという(事実ではなく)説明の表現の仕方が、いかにも意識の高いひとが好きな芸術家であることを現わしているなあ、としみじみ思いました。わたしもすばらしいと思いますヨ。意識高くないけど。昔読んだ本ではもともと芸術家ではなく職人上がり、凋落したオーストリアを棄てなかったひと、という記憶があって好意的な感情を抱いたのですが、クリムトというのは職人三兄弟なんですね。また第一次大戦終結直前に亡くなったこともわかりました。実際足を運んでみると勉強になるなあ。
ここで写真が撮れるみたいです。みんな意識高そうやなあ。

〇日本工芸会展 ・・・ これはオモシロい。800円はいたかったが。
ときどき本人か知合いか関係無いひとか知りませんが、解説している人がいて、目とか動きとか芸術的で面白い。来年の案内をもらうことになりました。

6月16日(日)・・・・・・・・・・・・・

仙台市内のホテルは高すぎるので、名取市内に宿泊。ついでに「古墳の町・名取」が誇る古墳の一部を調査した。

〇飯野坂古墳群・・・薬師堂、宮山、観音堂、山居、山居北の五つの前方後方墳を中心とする古墳群。飯野坂高地にほぼ東西に(薬師堂が一番東)並んでいるが、時代的には観音堂→宮山→薬師堂→山居→山居北とされ、3〜4世紀の当地の地域首長(まだ国造にもなっていない時代である)の歴代の墓と考えられております。今は海岸線から離れているのですが、往時は太平洋からも見上げられたのではないかと思います。全国的にもこの時期の前方後方墳が五つ並んでいる例は珍しい(昨年調査した那須でもそこそこ離れている)ことから国指定史跡となって住宅地でもそのまま遺っています。
今回のコレクションを時代順に並べてみます。
観音堂古墳。観音堂があり、夜はコワいと思われる。
宮山古墳。付近は古い公営住宅みたいで、立ち退きさせてあるようで、誰もいません。夕方以降はかなりコワいと思われます。
薬師堂古墳。ここに上がる途中の狛犬とか、かなり宇宙人的なのもありちょっと他で観られない。製作者の感性とかホントにコワいと思います。
山居古墳。このあたりは普通に住宅街なので、そんなに怖くないと思いますよ。
山居北古墳。これも小さいしコワくないと思います。さすがに深夜はコワいか。

〇雷神山古墳及び小塚古墳 ・・・ 東北最大の前方後円墳・雷神山に到達。時期的には飯野坂の五つの前方後方墳のあとの5世紀当初に、大和発祥に優れた土木技術を使って丘陵上に作られた均整の取れた古墳であられる。埋葬者が飯野坂の方々の系列なのか、それらを統合した方なのか、大和からお見えになったお偉い方なのか、など全くわかりません。小塚古墳(円墳)が並んで作られており、合わせて国指定史跡であられる。
雷神山古墳。花見の名所らしいんですが、雨でほかに誰もおらず、こんなところで刃物や拳銃持ったやつに遇ったらコワい。
後円部墳頂に上がってみる。雷神の祠がある。ここは東北の「いかづちの丘」なのだ。
小塚古墳です。雷神山古墳とほぼ同時代とされる円墳で、円墳としては東北最大級という。被葬者、雷神山古墳との関係など不明ですが、陪冢としてはデカすぎる。
雨も降っていたし、雷神山の草原を歩いたせいでズボンの股から下がずぶ濡れやで。普通の人なら乾かしたいところですが、旅の修行者ゆえ許されぬ。次の務めに向かう。

6月23日(日)・・・・・・・・・・・・・・・・・・

自己への不信に悩みつつ、船橋市内中近世遺跡を経めぐる。

〇金杉城址 ・・・ 総合運動場裏から見えます。中世城郭らしいのですが、私有地で入れません。

土塁などの遺構ありという。

〇夏見城址 ・・・ このお寺のあたりが夏見城といわれる中世城郭あとらしい。

長信寺さんです。裏手にお墓があってその向こうに崖地があるみたいで、そこまで行くと土塁跡があるようなんですが。

〇船橋城址 ・・・ 有名な海老川の岸辺にあった中世城郭です。このあたりに船橋があって、そこで通行税をとってたんだと思いますが、その船橋が地名になったのである。

海老川は、古代から中世にかけて船橋一帯にあった伊勢神宮領「夏見廚」(なつみのくりや)を流れる川で、近世までは船橋大神宮付近で海に流れ込み、江戸湾内海の海陸交通をつなぐ要衝であった。現在は河川整備がされて小さな都市河川になっております。

〇船橋大神宮 ・・・ というわけでここまで海老川を下って来ました。船橋大神宮は式内「意富比神社」(おほひ神社)で、ヤマトタケル伝説、景行天皇の行幸伝説があり、この地が古代から重要な港湾であったことの証左でもある。古来伊勢神宮領とされ、従って「意富比神社」の祭神も天照大神。源頼家以来清和源氏の尊崇も高く、江戸期には東照宮もあり、伊勢にも日光にも行けない者も、ここに参れば同じ効果があるとされたのである。

東照宮があってしかも交通の要衝なので、戊辰の船橋戦争で官軍の攻撃の的となり、近世の葵と菊の御紋の並んだ壮麗な社殿は焼け落ちたのである。

境内山上には江戸期に江戸内海交通を支えた常夜灯があったが、戊辰戦役で焼失。明治13年、有志により「燈明台」が建てられ、現在まで遺る。登録有形文化財です。

〇船橋御殿 ・・・ 東金街道沿いにあって、幕府の軍事施設(平時は鷹狩時のご宿所)として家康時代に設けられた。1630年を最後に使用されることなく、宮司の富(とみ)氏に下げ渡され、その後農地、現在は住宅地や繁華街となっておる。

このあたりから船橋御殿だったそうです。「東京ドームより広かった」と書いてありました。東京ドームは容積でも面積でもあちこちで比較対象になっています。大したものですね。左側は御蔵稲荷です。おねいさんの銅像が立っている場所は公園になっていて、昭和30年代までここに船橋市役所があったのだそうです。

これは富氏が大御所さまの御恩を記念して建てた東照宮。ちょうどこのあたりが御殿の中心だったらしい。路地の奧にあって「日本一小さい東照宮」と看板がありました。今も「徳川家康公・秀忠公に感謝します」との立て札があった。

いろいろ回っているうちに反省もできまして、これからは治療情報も集めることにしました。

7月14日(日)・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

明日も休みたいのになあ。と思いつつ、今日の調査結果。

〇伊勢市楠部

・橡樟尾(かすお)神社

楠部の産土社である。

・式内・大土御祖(おおつちみおや)神社

・式内・国津御祖(くにつみおや)神社

・神宮神田

・韓神山

大正年間の近鉄鳥羽線の敷設工事で失われたと言われるが、かつて荒木田氏の墓所(風葬地)であったともいわれる。

〇松阪市木造

・木造城跡

南北朝期からの名城で中世末にはこれより北の松ケ崎とともに、城下町を抱えた城郭であったが、天正十二年の織田・羽柴戦争の敗北による木造氏滅亡とともに廃城となる。ナワバリ等すべて水田に没したが、昭和42年に、推定地の盛り土の上に「木造城址」の碑を建ててある。

・木造神社

・式内・物部神社

〇亀山市関宿

すばらしく景観保存がなされていました。

〇四日市市「うみてらす14」

14階から四日市臨海コンビナートを見下ろす。日が沈むと工場夜景がすばらしいらしい。

7月18日(木)・・・・・・・・・・・・・・

今日は午前中、京都市内で所用を果たして、ちゃんと職場に休暇も取ってあるので堂々と観光である。50年ぶりで平等院に行ってみるでー。

・・・と思ったら、JR奈良線伏見駅近くですごい放火事件が起こってオフィスが燃えているとのこと。電車の中で他の客が「あれやわ」「よう燃えてはるわ」と見てはるのでわしも見た。まだようけ心肺停止のひとが建物の中にいるらしい・・・。

〇平等院鳳凰堂 ・・・ 工事中で中には入れないそうですが、鳳翔館というミュージアム施設があるので壁画や雲中供養菩薩の複製などが見られてよかった。現代となっては「そんなの当たり前よ!日本美術ステキ!」とみなさん言うでしょうが、50年前のおいら肝冷童子は「雲中供養菩薩」のファンで、足の挙げ方とか真似していたのだ。当時はすごいマニアックなことだったんですよ!

信じられないと思いますが、50年前におやじと来たころは、あの中の国宝の障壁画に触れたんですよ。そのときの手触りを思い出した。あれから長い長い月日が経っているのだなあ。
左下の十円玉と比べてみる。はちすばの濁りに染まぬこころもてなどあかがねの銭の臭いぞ。
これは今回はじめて見ました。かっこいい救世船乗菩薩さま。背後には阿弥陀様も。ああ、間もなくおいらも救ってくださるんよね!

雨に濡れながら宇治川を渡り、たどりついた源氏物語ミュージアムだが、時間切れであった。途中市営茶室でお茶席いただいてましたからね。
線刻阿弥陀如来。この石に表面、阿弥陀様、左側面に勢至菩薩、右に観音菩薩の線刻があり、平安時代のものと推定されている。

ここから、黄檗山万福寺(もちろん時間切れで入山できず)まで歩いてみました。かなり雨が強く傘無しなので普通のひとなら〇チ〇イ沙汰ですが、わしはちゃんと休暇取っておるのじゃからな!何をしても自由なのじゃ、ひいっひっひっひっひっひい!

7月28日(日)・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

多忙な激務の合間を活用して、所沢市の

〇狭山不動尊へ

この山門は奈良の山中から移されたもので、もと天誅組の本部があったんだそうです。左手に屋根が見えるのは羅漢堂で、井上馨が明治天皇・皇后、他の元勲や財閥からお金を集めて都内に作ったものを持ってきました。
かっこいい多宝塔が二つもあります。これは第二多宝塔と書かれていました。室町期のもので播磨にあったのを持ってきたそうです。

これは芝の台徳院(秀忠さま)廟所の「御成門」を移転したもの。「国宝」だそうです。確かに壮麗でかっこいい。

他にもカッコいい歴史的建造物が集められていて、しかも入場無料なので一見の価値あり。ただし三時半までなので、デーゲーム終わってからでは見られません。

〇山口観音 ・・・ 拝んできました。

8月4日(日)・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

ナゴヤ厭世ついでに、話題になっていた「トリエンナーレ愛知」開催中の愛知県美術館に行ってみました。話題になっていた反日展示は本日から中止になってしまっていましたが、他のも現代芸術だからツラいなあ。
会場があちこちにあるんです。そのうちの一室が「表現の不自由展」で、反日としか言いようのない展示があったそうですが、安全のため今日から中止(←マスコミ労働組合は「事実上の検閲」と言っているそうですが、脅迫した私人に言っている?)。・・・「親日」?で不自由だったやつも見せていればまだしもですがね。
ピエロ(の人形)が多数転がっているコレなんかよかったけどなあ。
テレビ塔前広場で「ワールド・コスプレ・サミット」開催中。キャラが申し訳ないがほぼわかりません。唯一わかったのが横山「三国志」の関羽であったのじゃ。

8月12日(月)〜13日(火)・・・・・・・・・・・・・・・・

古墳マニア垂涎の地、栃木県壬生町などを大調査。

〇下野国庁跡・記念館 ・・・ 記念館勉強になった。正庁は宮野辺神社の社叢あたりで発掘されておらず、前庁が復元されている。

熱中してきていたので、木陰は気持ちよかった。正面が復原前庁。

〇下野風土記の丘資料館・天平の丘公園

公園内のあずまやでご休憩中のにゃんにゃんさま。えさが置かれていたので地域の方々がお世話しているようだが、公園内にはあちこちに「ノラ猫に餌をやらないでください」の立て札があり、弾圧されているようである。

〇下野国分寺・国分尼寺跡、甲塚古墳、オトカ塚古墳、伝・紫式部墓

国分寺跡。すぐ近くに甲塚古墳あり。
伝・紫式部墓。実際には鎌倉期の五輪塔らしい。このあたりの地名を「紫」といいしより式部の墓と伝えられたるとのこと。

〇摩利支天塚古墳・琵琶塚古墳・資料館 ・・・ 摩利支天塚5世紀末〜6世紀初、琵琶塚6世紀前半の前方後円墳。付近は飯塚古墳群。
摩利支天塚古墳。前方部(剣菱型という特殊な形をしている)から昇って、もう一回階段を昇った後円部にお堂がある。
琵琶塚古墳。江戸時代から有名だったそうで、大正期には国指定史跡となった。
琵琶塚古墳後円部より前方部を望む。左手に摩利支天塚が見えるがこの写真では見えてません。

両古墳及び周辺の飯塚古墳群からは厖大な量のハニーたちが出ています。これは有名な形象埴輪群で、一番右の「首長」に対して、琴を弾く女子や踊り子、武人らが何やらお仕えしておられる。

〇壬生城本丸跡、精忠神社・畳塚、壬生町郷土資料館 ・・・ 壬生城は室町期の壬生氏の本拠、小田原攻めで没落、18世紀初に鳥居氏が入る。畳塚は鳥居元忠自刃の畳を埋めるという。郷土資料館には「宥座の器」があった。鳥居家は近江水口藩主時代以来、伊藤仁斎・東涯との関係が深いという。

壬生城はもともと土塁と堀、本丸に屋敷、という構造。本丸曲輪の土塁・掘割が遺る。本丸内の噴水などいかにも小侯国の風情があった。
郷土資料館蔵、今回断念した富士山塚古墳から出た、日本最大の家形ハニワ。(右二つ)。赤白の彩色がなされていたんですよ。

ほかにも形象埴輪の数々が。
ここも明治天皇が行幸されています。

〇壬生愛宕塚古墳、車塚古墳、牛塚古墳 ・・・ 車塚は栃木県内最大の円墳なり。石室が開口していて入れる。

愛宕塚古墳。17世紀のとのさまが城下のウシトラ鬼門に当たる、として愛宕神社を祀ってくれましたので、周溝まで含めて墳形がきれいに遺りました。

車塚古墳。六世紀の円墳で、国指定史跡。中央に石室開口部が見えます。

石室。このころかなり熱中していたので、中に入って涼ませてもらう。石室内の緑色の顔料が不思議というか不気味であった。夜中行ったら恐怖のため白髪化すると思われる。

〇吾妻古墳 ・・・ 県下最大の前方後円墳。国指定史跡。森の中にあり、御嶽っぽい。
工場地域の中に遺された深い森となっており、夜中に行ったら白髪化すると思われた。なお、江戸時代にはすでに石室が破壊されており、玄門や天井石は鳥居の殿様が集めて城跡公園にある。

〇大神神社・室の八島 ・・・ 式内社である。実際には国府近くにあり総社機能が中心か。
大神神社。このあたりに道鏡さまや親鸞聖人も棲んでいた。藤原実方卿や芭蕉翁も来ました。
境内の室の八嶋めぐりをする。いかでやは思ひありとも知らすべき室の八嶋の煙ならでは(実方)

〇しはぶきの森 ・・・ 歌枕。御嶽ちっくな森。ミツバチの箱があってコワくて引き返しました。
まわりは田んぼと宅地なのだが、これが遺ったのはやはり何等かの霊地なのであろう・・・

8月14日(水)・・・・・・・・・・・・・・・

会社に行かずにシアワセである。鎌ヶ谷での激務が雨で流れたので、夕刻まで船橋市郷土資料館を見学しました。

もう7〜8年前に来たことがあるのですが、中を随分作り変えたみたいです。石器時代からの船橋の歴史がわかるようになっていました。今回は、船橋ヘルスセンター(1955〜77)がどこにあったのか、調べに行ったのですが、展示からはわからないので事務所で訊いてみたら、以前の企画展で使った地図を見せてもらえた。
薬園台公園の一角にあります。「薬園」は享保期に丹羽正伯が将軍吉宗の許可を得て作った薬園があったので名づけられたのである。

江戸期の小金牧で飼養されていた在来馬の模型。後ろの影がサラブレッド。だいぶん大きさが違う。戦前期には騎馬学校もあり、バロン西やウラヌス号もここにいたんです。

これを見せてもらう。昭和41年ごろの航空写真との

こと。中央部にある楕円形が船橋競馬場で、そのすぐ西(現在大規模小売施設があるよし)に船橋ヘルスセンターがあったのだ。1970年代、地方の小学生であったわしにさえ名の知られた巨大レジャー施設「船橋ヘルスセンター」は「長生きちょんぱ、船橋ヘルスセンター」とCMソングで謳われたが、自らはわずか22年しか存在しなかったのだ。しかし日本国民になにやら名状しがたいシアワセ感を遺して行ったといえよう。

なお、この写真を見ると、6月23日に行った船橋大神宮のあたりまで、昭和40年ごろまでは舟がたくさん舫われていたこともわかります。勉強になった!

8月18日(日)・・・・・・・・・・・・・・・・・

遠征がてら、従来から宿題になっていましたところの

〇平沢官衙遺跡へ。奈良平安期の郡衙遺跡であるが、建物の考証がなかなかすばらしいんです。

背後に一山隔ててつくば山が見える。

〇北条町 ・・・ 近世のつくば山参詣の宿場町であるが、中世は常陸平氏嫡流・多氣氏の居館があった。

多氣氏は平国香の次男・繁守(長男が貞盛→清盛平家へ)の子孫であったが、多氣太郎のとき、頼朝の近侍・八田知治の讒言により守護代を終われ駿河で客死。その遺臣らが建てたのがこの墓であるという。多氣太郎は裏堀と呼ばれる用水路を作ったり、北條の町づくりの恩人ということになっています。

こちらは宿場町の外れにある八坂神社の五輪塔。中にお経が収めてあったそうです。

〇小田城 ・・・ 八田氏の子孫が小田氏で、その居城として300年続いた平城、最終的に佐竹氏に奪われた段階で総曲輪を有していたという。

小田城本丸あとに東曲輪から入る。

庭園あとなどが確認されています。はるか向こうにつくば山。

 

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