フィールドワーク録20−3 (起:令和元年11月2日(土))  目次へ  令和元年5月1日〜へ

日本はいろいろ美しいが、いにしえの人権もたましいも無いような職人たちの手の入ったものが、いちばん美しい、と思います。

11月2日(土)・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

真玉斎の調査に付き合って、そのあと沖縄島内の調査を地道に続ける。

〇首里ねこリリー

好奇心が強くて賢いにゃんこだが、かなりきつい性格で、肝冷斎などは完全に見下されている。

〇沖縄県立芸術大学資料館 ・・・ 企画展「組踊」開催中。

展示室内は撮影禁止なんでハザードだけ。組踊といえば冊封使出迎えのためのダシモノであった、ということから、上表使・冊封使関係の首里城内での儀礼について、麻生先生の説明を聞きました。鎌倉芳太郎資料の現物などをもとにしていてオモシロかったのですが、それよりは昭和11年の東京公演の写真・映像や、戦後の那覇での公演(女優も出た)記録などがオモシロかったさあー。

昨日燃えた首里城周辺にはあちこちで守衛さんが立入禁止をしていて、なかなか近づけません。芸大資料館前から撮った燃え残り状態の貴重?な一枚。もともとは芸大資料館前から首里城正殿が見える、というかっこいい設定だったわけですね。

それにしても、原因や、なんで延焼防げなくて東京から持ってきた尚家資料等400点燃えちゃったの?という再発防止に必要な議論の前に再建とその財政負担の話が飛び出していて、なんだこのポピュリズムは、こういうときこそマスメディアが立ち止まらせるのではないか、とマジメな心では思わざるを得ないのですが・・・そうですか、沖縄〇イムス主催の催し物中だったんですか。なるほど、「原因」とか後回しにしないといけないわけですね。これを機会に今回は政府の力を借りるな、日帝の琉球侵略を思い起こせという〇球新報もいるし、「沖縄の主権者」ともいわれます二大メディアは、相変わらず好き放題ですね。

〇クバの御嶽 ・・・ 今帰仁城裏の山頂にある琉球国生み七御嶽の一である。

今帰仁城駐車場付近から望むクバウ御嶽。向こうの山が御嶽で、頂上付近に威部(いべ。至聖地)があるという。クバウは蒲葵のことです。沖縄のはでかいよ。

歴史文化コースなので入口はたやすく見つかった。山内に三つの拝所があるということですが、ここまではなだらかな登山道で行ける。これが下の拝所であろうか。 祭事の際、男性はここまでらしい。
これが中の拝所か、あるいは「ぷときあな」(ほどきの穴)といわれる子授け祈祷所かのどちらかであろうか。

この先、こういうロープ状態なので、果たして老肝冷斎が登ったのかどうかは不明としておきたい。ここは九月に訪れたアスナの御嶽のような強い禁忌は今となっては無いようですが、祭事には山頂のイベに入れるのはノロ神女だけだとかなんとか。不思議な線刻文字らしきものが刻まれた岩も多く、さすがの冒険歴史民俗研究者肝冷斎にもこの場の「せじ」(神威)の高さは感じられたのである。

(参考)

どこから見たのか明らかにできませんが、今帰仁城の全景が見えるぞ。かなたには古宇利島や伊是名の島影も・・・。

11月9日(土)・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

札幌出張のついでに北海道博物館へ。

昨日初雪観測だそうで、寒かった。時間がもったいないので森林公園駅からタクシーを利用する豪勢さだ。

ナウマンゾウであるのだ。

さすが本場や! かっこいい土偶の数々。

これはオショロのジオラマ。

アイヌ関係、北海道開発関係は、剥き出しの資本主義・国権主義の荒々しさが伝わって、かえって心地いいぐらいだぜ。ご先祖さまはこんな勁いココロを持っていたんだ、おれも善悪など考えずに、がんばるぜ。

11月17日(日)・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

今週も休日出張なんで、ついでに山口付近を調査。

〇亀山公園

のザビエル記念館前にあった銅像。これはザビエルではなく明治時代になってザビエルの跡地にやってきた神父さんらしい。ザビエルが何を説き何をしようとしたか。この国がよくぞインカやペルーのようにならなかったものだと、考えるとぞっとする。

〇山口県博物館 ・・・ ちょっとさびしい。150円。

ティラノサウルスのかっこいい骨格標本ですが、山口で出たわけでもないしホンモノでもない。

〇山口市郷土資料館 ・・・ ちょっとさびしい。110円。

企画展「大内氏のトビラ」はすばらしい。ちょうど大内義隆の勉強してたのでピンズド的におもしろかった。しかし常設展が無い、のはさびしい。

〇山口藩庁あと ・・・ 県庁の前にあります。

この門だけ遺っています。このほか県政資料館とか時間があったら観光し尽したかったが・・・。

〇大内氏館 ・・・ 毛利隆元さまが大内義隆の菩提を弔うお寺にしました。藩政期、明治以降を経て、この間450年忌をやったそうです。

この建物自体含め国指定史跡。宝物殿もあって義隆さまと毛利父子面会の復元人形置いてありました。みんな宝塚みたいな目をしていた。

〇築山さま ・・・ 大内氏の隠居館。大内氏館の北に隣接。八坂神社となっており、その社殿は室町のもので重要文化財らしい。

土塁跡。右の石碑には「大内義興公がどうたらこうたら」と書いてある(はず)。

〇山口県図書館・文書館 ・・・ ここはすばらしかった。寺内正毅コーナーもあり。

文書館では大内氏文書の特集中。「殿」の崩し方が客分に対するときと臣下に対するときで違うんです。その実例を展示中。

〇周防三宮・仁壁神社

山口市内の一角にありました。アジスキタカヒコネのみことなど。

〇周防二宮・出雲神社 ・・・ 佐波川沿いに出雲族が進出してきた証であるという。少彦名のみことなど。

佐波川沿いの徳地にあり。実にのどかな田園の中であった。

社内の大杉。神さびておられる。

なおこの徳地のあたりは「石風呂」が多いようで、出雲神社にも「石風呂」があった。

〇三坂神社 ・・・ 式内・御坂神社に比定(論社あり)。武運長久の神として大東亜戦争時代には大人気だったそうです。

いかにもひなびた古社らしく、世話役のひとが中で一人書き物をしていた。

〇大日古墳 ・・・ 防府市の山際のお墓の中にある前方後円墳。石室が開口し、中には石棺も遺る。国指定史跡。

大内氏の始祖・新羅の琳聖王子の墓という伝説あり。王子は聖徳太子に会いに来て、そのまま土着して多々良氏→大内氏の始祖となったという。周防在庁官人出身の大内氏はもと多々良氏を称し、もしかしたら出雲鍛冶系かとも推測するが・・・。

〇周防一之宮・玉祖(たまのおや)神社 ・・・ 玉造部の始祖である玉造の命は、三種の神器の勾玉を作ったひとで、天照大神が岩戸隠れのときに、天のうずめが身に付けた。かっこいい黒いニワトリ(黒柏)の発生の地でもある。8〜10秒鳴く、という常世の長鳴き鳥である。

ここは平成18年ごろ来たはず、と思っていたがもしかしたら思い込みかと思ったが、来てみたらやっぱり来たことがあった。

玉祖神社の北方にある「厄神さま」。玉祖神社はかつて現在より500メートル北の穴にあった、という記述があり、それがここだとの説もある。平成18年ごろ探してみてわからなかったところですが、今回はナビ付レンタカーのため行けた。

〇周防鋳銭司跡 ・・・ なんにもないところですが。

昨日ここの発掘をした先生の講演を聞いたんです。ここに将来は遺跡博物館みたいな施設を作りたい、と言ってました。

新山口駅前に種田山頭火銅像がありましたよ。

11月23日(土)・・・・・・・・・・・・・・・・・・

せっかくの勤労感謝の日ですが冷たい雨になった。「こんな暗い日は東洋館がいいぜ」と国立博物館の東洋館に仮面展みたいなやつを観に行こうかと思ったが、駅の構内チケット売り場にたくさんひとが並んでいるので止めまして(並んでいる人たちが東洋館に行くひととは客層が違うみたいなんで気おくれして)、山手線をぐるりと回って、渋谷から宿題の一つである世田谷郷土資料館へ。

〇世田谷郷土資料館 ・・・ 都内でも有数の地域歴史資料館なんだそうです。なにが有数なのか、といいますと・・・

この都指定史跡世田谷代官屋敷(大場家屋敷)が資料館の一部になっているからだそうです。ただし現在修復中で、12月4日からは見学できるそうです。企画展「世田谷近代消防史」も開催中。

展示はそこそこくろうと向けで(すなわち華美なものはなく)ゆるキャラみたいなのもいないので落ち着いたものであった。これは世田谷区内の石器時代遺物。多摩川があるのでどの時代も遺跡は多い。

これはすばらしい。不動橋横穴墳墓群で発見された線刻画である。ちょっと見づらいですが、現物もこの程度です。上と下に二人の「にんげん」と思われるものが刻画されており、下部の黒い穴様のものは下のひとの涙ではないか、ともいわれているそうです。うーん、しかし、この肝冷斎の絵レベルの具象性しか持たないような絵(肝冷斎の雪だるま絵に酷似している)を、古代のひとが大切な場所に刻むものかなあ・・・。

このジオラマを見て、気づきますか。左の茅葺屋根の建物は、三つ上の「代官屋敷」の門です。このジオラマは430年続く無形文化財「世田谷ボロ市」の江戸時代の想像図で、この世田谷郷土資料館はボロ市のメーン会場に面しているということで、そこもポイント高いみたいです。この世界的には・・・。

その他、吉良家、大場家、江戸家関係、民俗資料など小中学生には消化しきれないと思いますが、いろいろ説明されています。オトナ向けなんです。明治初期の初等教育関係や玉川電鉄関係などもそこそこおもしろい。玉電電車は現在明治村に動態保存されている京都市電の電車とおそらく同じ型式らしいです。取電棒が一本、手動ブレーキ、前後の救助網が特徴であるという。

〇世田谷城址 ・・・ 室町期に足利将軍家連枝の名家・吉良氏(西条吉良氏が三河の吉良上野介で有名な吉良氏、こちらは東条吉良氏とよばれる)の本拠は世田谷城である。中世関東屈指の名城なんですよ。

これは「城址公園」だが、ここは世田谷城の南端のごく一部で、一応空堀や土塁遺構と思われるものが整備されているが、ここから同城の規模を推測するのはよろしくないようである。このあたりは烏森川に突き出した舌状台地の先端になり、城域の東側は鎌倉街道が限る。

城址公園の裏は井伊家墓所・豪徳寺で、井伊直弼さまのお墓がブームだったときもあるみたいですが、ここはもと吉良氏菩提寺の弘徳院を中心とする土地で、現在の豪徳寺の敷地は、当時の広大な吉良氏館を含んでいるとのこと。太田道灌の江戸城に行く前に、万里集九はここに滞在して、漢詩の応酬をしているという。

豪徳寺は「招福猫」が売りになっているみたいですね。大量の招き猫が奉納されていました。チュウゴクのひとかな?写真を撮っていました。海外観光客の訪日ルートにも入っているようです。

城域は現在の宮の坂駅方面にも広がっており、いわゆる詰めの城もどこかにあったようなんですが、現地形からは判明しません。

源義家創建伝説の世田谷八幡宮。奉納相撲で有名、なんだそうですが、ここも吉良氏の遺跡で、世田谷城との関係では出城機能も持っていたようです。

吉良氏は後北条側に附いたので、秀吉の仕置きで領地を失い、その後千葉方面に移ったあと形跡が知れなくなったようです。家康関東支配の中で、世田谷は代官支配が中心だったのですが、井伊家の領地も多く、明治の漢詩人として重きをなした岡本黄石(桜田門外の変のときの江戸家老)などもいたみたいです。また毛利家の抱え地(これは拝領地ではなく一般の農地を毛利家が買ったものなので、年貢を払う必要があったそうです)があったので、そこに高杉晋作らが吉田松陰の遺骸を埋めたのが松陰神社の始まりである。

11月24日(日)・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

先月行った川口市郷土資料館で紹介されていました「いいなパーク歴史資料館」に行ってきました。

いいなパークの一画に立つ伊奈忠治像。このパークは赤山陣屋跡に設けられているんです。ただし、行ってみてわかりましたが、「資料館」は資料も何もないのでがっかりしますよー。

しかし本日は伊奈氏の居城であった赤山陣屋跡の見学会をやっていたので、すでに「満員」ということでしたが潜り込んでついて行ってみた。

赤山城(陣屋)址の碑。空堀などが発掘されている。この発掘過程で「安行式」土器などが出土。なお川口市の赤山陣屋と伊奈町の「伊奈氏屋敷跡」(小室陣屋址)は違うものですから、間違ってはいけません。あちらは家康さまに仕え、秀忠幕閣の年寄格にまでなった忠次と「熊蔵家」の屋敷で、熊蔵家はすぐに改易されて1000石の旗本になり、こちらが忠次の子で18世紀末まで一万石であった「関東郡代」(←この呼称自体は後世のものだそうですが)の忠治を継ぐ「半左エ門家」である。

陣屋東口にある山王神社。みなさんは18世紀初頭、宝永の富士山噴火の被災地復興に挺身した伊奈忠順が立てた「八幡宮」碑を見ているところです。詳しくは新田次郎「怒る富士」冒頭を見よ。

陣屋本丸を区切る堀を一周して説明を聞いた形であるが、暗くて夜中行くとコワそうなところもあり、見学会自体は運動になってよかったと思います。

12月7日(土)・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

特別展も終わって入りやすそうなので、久しぶりで上野国立博物館へ。

〇関東鯉品評会 ・・・ 噴水公園で寒い中やってたので覗く。こいつが今年の関東一。感動的にでかい。

〇東洋館 ・・・ 「ひと・神・自然展」をやっているので見たのですが、おいらの古い友だち(中学校の修学旅行以来の付き合いである)アンリ・マスペロ寄贈のミイラちゃんも利用されていて、そんなに新しい発見は無かった感じです。撮影禁止。

寒くて人が少なく、すばらしい。

かっこいいチャイナ古代青銅器たち。

これも中学校の時以来の友だち、唐代の文官(中央)と鎮墓獣(左右)。むかしは「ちんぼじゅう」という響きが可笑しくて笑ってしまったなあ。申し訳なかったなあ。

〇庭園 ・・・ 開放中。

春草廬(河村瑞賢が淀川河畔に立てたもの。原三渓を経て東博へ)、九条家書室などいいモノがありました。

〇平成館 ・・・ いつもの考古室へ。

すばらしい。

鬼瓦ちゃんたち。いかにおどろおどろしいモノでも、この国の山河が生み蔵していた物と思えば、すべて親しいモノと感じられてしまうから不思議である。

おいらもいるでにゃーん。

12月8日(日)・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

天気よかったんで、湘南電車に乗って葉山へ。

〇潮騒博物館 ・・・ 御用邸の隣にあります。

昭和天皇のご採集になった標本のコーナーもありました。

これは生け簀など相模湾の漁具。デンドロカカリヤをはじめ変な生物の標本もたくさんあって、なかなか飽きない。

〇神明社庚申塔 ・・・ 御用邸の前にある小祠の境内にありました。このあたりは庚申塔の多いところらしいです。

ちなみに右端の大きいのは「天明」、二番目に「宝暦」、三番目に「寛政」の年号がありました(左端は未確認)。

〇神奈川県立近代美術館(葉山館) ・・・ フィンランドの食器デザイナー、カイ・フランク展をやってました。カイ・フランク(1911〜1989)はフィンランド農民のことわざ「堅いパンの中にバターを入れて働きに行け。昼間、パンを食べてしまえば夕方までお前の手許には何も残らないようにせよ」をモットーに作るのも使うのも簡便な食器をデザインしたのである。すばらしい。

平安時代の塩釜遺跡の上に建っています。葉山は縄文・古墳・古代〜近世の遺跡が多い。

美術館裏の一色海岸から冬の落陽を見る。右手の方にうっすらと富士山も浮かび上がっていた。「こんなにいい日暮れの日曜日だったのだから、明日からはじまる一週間も絶対にいい一週間だ」と信じてみる。信じている。信じる。

12月14日(土)・・・・・・・・・・・・・・・・・・

沖縄調査。かなりマズイこと(霊的に)してしまったかも。

〇大城の殿(うふぐすくのとぅん)・大城城(うふぐすくぐすく) ・・・ 大城按司の本拠地。按司は先住の民を服属させて「世直し」を行ったと口承されています。

大城の殿(とぅん)。拝所である。

「琉球国由来記」巻十三によると、ここでは、

稲二祭之時、花米九合完、五水一沸二合完、神酒一完(地頭)、神酒三完(百姓)供之。同巫祭祀也。

稲に関する二度の祭り(稲穂の祭りと収穫時)の時には、花米(塩か?)を九合まるまる、五か所で採った水を一回煮沸したもの二合まるまる、地頭(村長)からお神酒一本まるまる、ほかの村民から三本まるまるをお供えする。大城ノロが祭祀を司る。

のだそうです。

大城グスクの山頂平地部。この周囲は崖で、いまでは車で登れるが、今でも麓からロープを伝って登る道もあります。うがみをしている人もいたのに、土足で入ってしまい、かなり霊的にマズイ。

こちらも「由来記」巻十三を閲するに、

城内ノヤラザ嶽 神名 火鉢ノ御セジ (火鉢の精霊。「セジ」は「神威」)

地頭所火神 

大城之嶽 神名 ヨナフシノ御イベ (世直しのみこと。「イベ」は「威部」「畏辺」で「かしこむべきもの」ぐらいの意味)

同嶽 神名 コバヅカサノ御イベ (コバのノロのみこと。「こば」=「くばう・ふぼー」は、ビロウのこと。「ツカサ」は神司で、ノロのことです)

が祀られているようです。案内絵図にもあちこちにイベがあるとされていた。

〇稲福の殿・上の御嶽 ・・・ 稲福は14世紀グスク時代の遺跡があり、大城按司と何とか按司の戦闘の伝説もあります。早い時期に開かれた地域で、稲福寺も開かれていました。これらの伝承は記録を遺した「中山国」にとっては不要な「ものがたり」なので、琉球王国(及び今の沖縄のみなさん)としては無視してますが。

「由来記」によれば、

稲福之殿 稲穂祭之時、花米九合、五水一沸六合、神酒一(地頭)、神酒三(百姓)供之。大城巫祭祀也。大祭之時、百姓より巫・掟阿武、両度賄仕也。

稲福の殿(とぅん)では、稲の穂が出たときの祭りの際に、花米を九合、五か所で採った水を一回煮沸したもの六合、地頭(村長)からお神酒一本、ほかの村民から三本お供えする。大城ノロが祭祀を司る。また、収穫時の大祭りの時には、村民からノロとウッチアム(ノロの助手をする女祭司)にもう一度準備する。

のだそうです。大城の嶽とちょっと違う。

これは稲福「イリ」。根所(にどころ)と言われる村長が管理していた拝所。

〇久高島 ・・・ 中央公論事件などで非常に有名な島(もちろんイザイホーやフボー御嶽や久高ノロ・外間ノロやアナゴの子説話や第一尚王家崩壊説話などでも有名)ですが、7年振りで行ってみたが、また体調悪くなりました。何かあるのであろう。

七年前はこの道の途中で熱中症になりぶっ倒れた。今回は自転車を借りたし冬だから楽ちん・・・だった。

島北端のカベールの浜へ。ここは琉球開闢のアマミキョさまが上陸なされた地という。地元では二頭の白馬の漁業神が出現するとの言い伝えもあり、聖地である。

イヌがいないので我が物顔のにゃんこたちだ。うずまきパンを与えたらすごい勢いで食べはじめ、十匹ぐらい寄ってきてかみついたりしてきてパン取られた。

〇中島イソ子個展 ・・・ 自画像で有名な沖縄画壇の大ベテランです。今回は衝撃のヌード自画像で話題。

12月15日(日)・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

〇旧芝離宮恩賜庭園 ・・・ 元小田原大久保家「楽寿園」、幕末に紀州藩上屋敷(幕府海軍関連)、有栖川宮家、宮内省離宮から関東大震災で焼失して恩賜庭園となったそうです。園内の石が全部黒いのは大震災と空襲による火災のゆえであるとのこと。

那覇空港で買ってきた大東まつり寿司を食う。

そのあとガイドさんに案内してもらう。庭園中央にある四つの石柱。長らくナゾの物体であったが、近年の調査で、この石柱の上に階段で昇る茶室が設けられ、吉宗さまなどが招かれたことが判明。

〇東京ステーションギャラリー「坂田一男 捲土重来」 ・・・ 坂田一男(1889〜1956)は岡山県のキュビズムの巨匠だそうです。キュビズムが勃興したころのフランスに留学して、助手などをしてその中枢にいたひとだという。帰国後は岡山のアトリエで活動したため、中央画壇からは遠い存在となった、とか評されていた。

これは坂田さんとは関係なく、東京駅の天井。こんなに綺麗だったんですね。十二支のオブジェが各方向に置かれている。

12月22日(日)・23日(月)・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

休みとって豊橋近辺を調査。

〇吉田城

酒井氏や池田輝政が東海道と豊川を扼す地に築いた「背水」の名城である。明治から昭和にかけては第十八連隊駐屯地。

市電の「ブラックサンダー号」に乗れたぞ!

〇豊橋市美術博物館 ・・・ 城内二の丸にあり。

〇船山古墳 ・・・ 国府(現豊川市)にあり。

〇三河国府跡 ・・・ 同上。東三河(穂の国)と西三河(三川の国)のちょうど中間点に国府など大和朝廷関係のものが置かれたようである。

〇三河総社 ・・・ 国府跡の隣にあります。

〇八幡宮 ・・・ 一国一八幡で作られたという国分寺の鎮守。

〇三河国分寺 ・・・ 現在もあり。発掘中。

〇三河国分尼寺跡 ・・・ 資料館(「三河天平の里資料館」もあります。

復元総門。  

〇豊川稲荷 ・・・ 霊験かなりあると思われます。なお、裏に海軍豊川工廠慰霊碑あり。八月七日の空襲で勤労動員学徒・女子挺身隊等2000余人爆死。

でかくて迫力あります。ここから右手の方に奥の院や霊狐塚あり。おみくじよくてうれしかった。

この山門は豊川稲荷寺最古の建築物とのこと。16世紀半ば、今川義元さま御寄進である。

〇市杵島神社(牟呂みなと比定地)

豊橋市西部、柳生川河口部にあります。神社は古墳上に立っており、ここから手前は水面だったという。

オモシロいことに、この市杵島神社古墳(3世紀の前方後方墳。いわゆる尾張王権の勢力下であることがわかる。長さ60メートル程度)は、さらに古代の貝塚を利用しており(海岸微高地だったのであろう)、後方部の表面などは貝殻がびっしり遺っている。

また、市杵島神社から数十メートル東側(港から離れる方向)の住宅地の中に、小さな大塚天王社の社殿が立つが、ここは七世紀の前方後円墳(ということはもう大和政権である)の一部で、住宅地の開発による削平に伴い、太刀や横穴式石室などが発掘されている。この古墳は神亀五年(728)に海に流され、ここに流れ着いた開元王という方(百済系か)の墳墓との伝説があり、「牟呂王塚古墳」という名前がついてます。

市杵島神社から柳生川河口方面を見ると、こんなふうに見えます。この先は現在の豊橋港です。この付近には「ええじゃないか」発祥の地もあります。

ああまた日が暮れるなあ。

12月29日(日)・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

もうすぐ来年。絶望の年が明ける・・・。追われるようにおそらく今年最後のフィールドワークに行ってきました。

〇息栖神社 ・・・ 東国三社の一。今回はここから香取・鹿島の両宮を回って三社めぐり、そのあと行方の夜刀神社に行ってみよう・・・と思っていたのですが、まったく違った日程になってしまう。

神社裏の森が意外と深い。

表側は古い港であったといい、日川の地から八世紀に遷座したときについてきた男甕、女甕から清水の湧く「押潮井」がある。なお、押潮の井は、伊勢・明星井、伏見の井と併せて日本三名泉の一とのこと。

〇鹿島灘 ・・・ 波崎の先っぽまで行ってみようとして、すごい距離を走ってしまう。

荒い海である。常世の光を放つ神やうつろ舟や米軍のUFOなどが寄せてきた灘なのだ。

〇東庄(とうのしょう) ・・・ 千葉氏支族の東氏(とうし)の本拠地となった東庄を調査。

・笹川諏訪神社、延命寺 ・・・ 笹川は「天保水滸伝」の舞台。当時「男の華」と謳われた笹川の繁蔵らが、郷土(というかナワバリ)を守るために戦って死んだ土地だぜ!「天保水滸伝」は平手造酒で名高く、昭和期の「学ラン八年組」などの名作にも影響を及ぼした古典文学だぜ!

諏訪神社境内にある「天保水滸伝遺品館」。残念ながら年末で休みです。

遺品館の壁に掲示されていた笹川に飯岡のやつらが押し寄せてきたときの図。北の川からと南の陸地から殴り込んできやがったのだ。

北から来たやつらが上陸してきやがった港だ。

延命寺にある「男花」三士の墓(記念碑)。左のが勢力富五郎、まん中のが笹川の繁蔵(岩瀬繁蔵)、右の背の高いのが平手造酒の墓である。

諏訪神社境内にある相撲碑。笹川の繁蔵は天保飢饉で苦しむ人民を救済するため、大賭博大会を開催。国定忠治や清水次郎長も参加した。真ん中の茶色いのは、その際に繁蔵が立てた「野見宿祢」碑。奥の小さいのは出羽の海親方の「心技体」碑、こちら側の黒いのは三波春夫氏の詩碑である。

・須賀山城 ・・・ 東氏の居城。15世紀、千葉氏の進出により隣接する森山城に取り込まれた。

雑郭型と呼ばれるあちこちに曲輪のある山城であるが、土塁や空堀がよく遺っていて勉強になる。これは本丸跡の「シジミ台」に続く土橋である。

・東大社 ・・・ 東庄鎮守。のみならず景行天皇が来て東国鎮守を託され、20年ごと(12世紀初までは毎年)に銚子まで神輿に乗って御遷幸され、鹿島灘の風波を鎮める。

祭神は玉依姫命。下総に入った海人族の一派が奉った神であろう。

〇三分目大塚山古墳 ・・・ 下総最大の前方後円墳。

水郷駅の近くにあります。後円部に石槨に用いられたと思われる石が板碑のように三枚立てられており(写真はそのうちの一)、古くから古墳であると認識されていたそうです。

とにかく今年はもうおしまい。来年ももうおしまいにしてほしいいいい。

12月31日(火)・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

〇二見興玉神社 ・・・ 祭神は猿田彦です。

夫婦岩。すごく荒れていました。夫婦岩の先700メートルに、いまは海中に没している神さまの現われる岩があるんだそうです。沖縄のあしゃげの岩と同じ信仰だと思われますのう。

二見ミニ博物館にあった二見の獅子の写真。「二つの箕」(ふたつのみ)から成る。この獅子舞のときは、男衆が特異な叫び声で触れ回るそうです。

〇神前(こうざき)岬 ・・・ 日の姫神の生まれるところ。

右手の岬が神前です。荒れてます。

〇皇大神宮摂社・江神社

〇二見興玉神社摂社・栄野神社

〇潮音山太江寺

 

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