平成31年3月24日(日)  目次へ  前回に戻る

ヘビの皮を着た変な公家貴族みたいなひとが沖縄にやってきたぞ。このひとは「にょろ納言さま」といい、もと平氏だったらしいが、落魄して冬の着物がぼろぼろで震えているときにヘビの抜け殻を発見して「これはすばらしいでにょろん」と着てみたところ、呪いのヘビ皮で脱げなくなってしまった。にょろ納言はそれをいいことに「おいらはヘビでにょろん」とごろごろしてシゴトもしなくなったので、ついに都を追放されたという人物である。

さて、にょろ納言が月を見て泣いておられます。どうして泣いているのでしょうか。次のA/Bから正しそうなものを択べ。

A)「都が恋しいのでにょろん」と昔を懐かしんで泣いている。

B)「恫喝と詐術ばかりの都は恐ろしかったのでにょろん」と昔の恐怖に怯えて泣いている。

 

肝冷斎は先週末、不潔なので追放されたのですが、しかしよく考えるとすでに俗世から追放されていたので、実態にはほぼ変化がありませんでした。

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俗世から離れていた、といえば戦国時代に「鬼谷子」というひとがいました。戦国の縦横家である蘇秦・張儀の師であり、自らも戦略学の書である「鬼谷子」を書いた―――とされる伝説上の思想家でありますが、実は王利という名前の実在のひとだったんだそうです。

鬼谷先生、晋平公時人、隠居鬼谷、因為其号。姓王名利、又居清渓山中、蘇秦・張儀従之、学縦横之術。

鬼谷先生、晋の平公の時の人にして鬼谷に隠居し、因りてその号と為す。姓・王、名・利、また清渓山中に居り、蘇秦・張儀これに従いて縦横の術を学べり。

鬼谷先生は、晋の平公の時代のひとで、鬼谷というところに隠れ棲んでいたので、その地名を号にしたのである。姓名は王利といい、その後、清渓山の中に移り住んだ。蘇秦や張儀がやってきて、先生に従って、縦横(しょうおう)の戦略を学んだのである。

晋の平公は在位時期が紀元前557〜前532というひとですから、蘇秦や張儀を教えたとすると前四世紀のひとでなければいけませんから、それだけで三百年は生きたと思われます。さらに下に記しますが、それ以降も生きていたらしい。だいたい「縦横」の術は秦と同盟する(横)のと秦に対抗して他国が同盟する(縦)のとどちらがいいか、という議論ですから、秦がほかの国々より突出して強い状況にならないと現れるはずのない戦略論です。何百年も前から秦が強くなると予測していたのだなあ。すごいなあ。

蘇秦と張儀は鬼谷先生の期待する弟子だったのですが、

二子欲馳騖諸侯之国、以智詐相傾奪、不可化以至道。

二子、諸侯の国に馳騖(ちぶ)して智詐を以て相傾奪せんことを欲し、至道を以て化するべからず。

二人は、諸侯の国々を駆けまわって、知恵と詐術を以て互いに権力を奪い合うことばかりを欲して、「最高の道」によって心を入れ替えさせることができなかった。

夫至道玄微、非下才得造次而伝、先生痛其道廃絶、数対蘇張涕泣、然終不能寤。

それ、至道は玄微にして、下才の造次を得て伝うるにあらず、先生その道の廃絶するを痛み、しばしば蘇・張に対して涕泣するも、しかるについに寤むるあたわず。

ああ「最高の道」は暗く微かで、才能のないやつに急いで伝えられるような性質のものではない。先生はこのままでは自分の学んできた「最高の道」の学問が絶えてしまうことを強く憂い、蘇秦と張儀に何度も涙ながらに改心するよう説教したのだが、とうとう目覚めさせることはできなかったのである。

残念です。

やがて、

蘇張学成別去、先生与一隻履化為犬、北引二子即到秦矣。

蘇・張学成りて別去せんとし、先生一隻の履を与うるに化して犬と為りて、北のかたに二子を引きて即ち秦に到れり。

蘇秦と張儀は学ぶべきことも終わり、別れ去ることとなった。先生は一足のくつを二人に与えたところ、それぞれイヌに変化した。二人がこのイヌたちの引っ張るのに任せていると、あっという間に秦の国に到着していた。

ここから、二人の国際謀略家としての活躍が始まったのである・・・。

一方、二人を見送った鬼谷先生の方は、どうしたかといいますと、蘇秦も張儀も死に、秦が天下を統一した後、秦の始皇帝の時のことですが、

大宛中多枉死者横道、有鳥銜草以覆死人面、遂活。

大宛(だいえん)中に多く枉死する者、道に横たわるに、鳥の草を銜えて以て死人の面を覆うに、遂に活する有り。

西域の果ての大宛国で、事故死した者が道路に横たわって(葬る者も無く)いるときに、鳥が草をくわえてきて、その死人の顔にかぶせると、生き返る、という例がいくつも起こった。

有司上聞、始皇遣使齎草以問先生。

有司上聞するに、始皇、使いを遣りて草を齎して以て先生に問わしむ。

役人からその旨の報告を聞いた始皇帝は、使者にその草のサンプルを持たせて、鬼谷先生のところに聴きに行かせた。

先生はまだ生きていたのです。

先生曰、巨海之中有十洲、曰祖洲、瀛州、玄洲、炎洲、長洲、元洲、流洲、光生洲、鳳麟洲、聚窟洲。此草是祖洲不死草也。生在瓊田中、亦名養神芝。其葉似菰、不叢生。一株可活千人耳。

先生曰く、巨海の中に十洲あり、曰く、祖洲、瀛洲、玄洲、炎洲、長洲、元洲、流洲、光生洲、鳳麟洲、聚窟洲なり。この草、これ祖洲の不死草なり。生じて瓊田の中に在り、また養神芝と名づく。その葉は菰に似るも叢生せず。一株にして千人を活するのみ、と。

先生はご下問に対して答えて言った。

「世界には巨大な海があり、その海中には(我々の地のほかに)十の大陸が浮かんでおります。それぞれ祖洲、瀛洲、玄洲、炎洲、長洲、元洲、流洲、光生洲、鳳麟洲、聚窟洲ですが、この草は祖洲の「不死草」でございますな。その地には、玉を成長させる田んぼがあるのですが、そこに生えるもので、別名を「心を養うコケ」とも申します。その葉はまこもに似ていますが、群がって生えることはございません。まあ、一株でやっと千人ぐらい生き返らせられる程度ですな。

わしの知っているほかの不老不死薬に比べれば大したことはござりませぬよ、ひっひっひ」

先生在人間数百年歳、後不知所之。

先生、人間に在ること数百歳、後に之くところを知らず。

先生はこのように人間社会に数百年暮らしていたが、その後、いなくなった。どこに行ったのか、誰も知らない。

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五代・杜光庭「仙伝拾遺」より。わしはこんなに長くはいませんので、聞きたいことがあったら早く聞きに来てくださいよ。

 

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