平成31年3月25日(月)  目次へ  前回に戻る

いったい何匹のネコが乗り込んでいるでしょうか。ネコ乗客は知らないうちに増えてくるからなあ。

知らないうちにまた月曜日になっていました。洞穴から出たら見つかるところだった。危ない危ない。

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隠者が隠棲先から俗世に出てくるにはいろいろ理由があるものなのでございます。

「三国志」に詳しい方には言わずもがなのことでございますが、三国・魏から晋に禅譲される際、司馬氏は、司馬懿(しば・い)(179〜251)の晩年に権力を掌握し、その子・司馬師(208〜255)、その弟・司馬昭(211〜265)を経て、昭の子の司馬炎(236〜290)が魏の元帝から譲りを受けて、晋の武帝として即位しました(265年)。晋の建国後、司馬懿は宣帝、司馬師は景帝、司馬昭は文帝と諡されています。

さて、このうち、司馬師が当主だった時代のこと、ですから、魏の嘉平三年(251)から正元二年(255)の間のことになりますが、

司馬景王東征、取上党李喜、以為従事中郎。

司馬景王東征して、上党の李喜を取り、以て従事中郎と為す。

景王・司馬師が東方に出征した際、山西・上党のひと李喜を採用して、従事中郎に任命した。

しばらくして、

因問喜、昔先公辟君不就。今孤召君何以来。

因りて喜に問うに、「昔、先公君を辟(まね)くに就かず。今、孤の君を召すに何を以て来たれるや」と。

ある時、(景王は)李に訊ねた。

「かつて死んだおやじ(司馬懿)があなたを招いたときには、あなたは幕下に加わわってくれなかった、と承知しているが、いま、みなしご(のようなわたし)が招いたら来てくれたのは、何か理由があるのかね」

と。

時代は司馬氏の権力を確実なものにしつつある、ということを聞きたかったのかも知れません。

これに対して、李喜は悠然と答えた。

先公以礼見待、故得以礼進退。明公以法見縄、喜畏法而至耳。

先公は礼を以て待(たい)せらる、故に礼を以て進退するを得たり。明公は法を以て縄(ただ)さる、喜は法を畏れて至るのみなり。

亡くなられたお父君は、礼を以てわたしども(田舎の知識人)を待遇してくれましたから、わたしどもも礼によって出仕したりお断りしたり(の選択を)することができたのでございますが、御主君さまは法規を以て(命令に従わねば罰する、と)わたしどもの行動を正そうとされる。わたくしは法規を畏れて参上しただけでございます」

「なるほど」

「うっしっし」

「わっはっは」

相手の父親を称賛しているので、もちろん司馬師は否定はできません。しかし司馬氏についてはプラス評価になっているし、遠回しには司馬氏が確実に力を持って来ておられますなあ、みたいな評価にもなっているので、司馬師には意外と心地よく聞こえたはずです。巧いね。

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「世説新語」言語第二より。李喜は「晋書」では「李熹」と表記されていますが、晋国建国後には尚書僕射(宰相)の地位にまで昇っている有能なひとなんです。有能な部下と優れた主君だから成り立つ会話なんで、ふつうのみなさんはこんな答え方してはいけませんよ。絶対に。

 

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