平成28年8月15日(月)  目次へ  前回に戻る

「職場」にはいい人ばかりいるんでちゅか?

今日も肝冷斎は見つからないなあ。彼岸に行ってしまったのかも知れないが、お盆なので戻って来るかと思っていたのだがなあ・・・

と思っていたら、今日は会社から連絡が来た。

「今日は月曜日なんだけど。無能力でも精神的にヤラれに来てもらわないと困るんだけど」

「申し訳ござらん、肝冷斎はどこに行ってしまったかわかりませぬのじゃ」

「肝冷斎が行方不明? 肝冷斎という個人はどうでもいいが、誰かには来ておいてもらわんとならん。おまえは何者なのだ?」

「わ、わしは、一族の者じゃが・・・」

「よし、明日はおまえがハタラきに来い!」

「な、なんですと?」

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この世には、来るもの、行くものがございます。

有物来来不尽来、 物有り、来たり来たりて来たり尽さず、

来才尽処又従来。 来たりてわずかに尽くるところ、またよりて来たる。

来来本自来無始、 来たり来たりてもとより、来たること始め無し、

為問君初何所来。 問いを為さん、君初めいずれのところより来たるか。

 存在するものは、どんどん来るのだが、まだすべて来ているわけではないぞ。

 来るものがどうやら消滅したか・・・と思ったときには、また来ているのだ。

 どんどん来るのだが、どうやら来るのが当たり前なのだろう、ずっと昔から来ているのだ。

さて、質問です。あなたさまは最初どこから来たのかな?

さて、どこから来たのだろう。

有物帰帰不尽帰、 物有り、帰り帰りて帰り尽さず、

帰才尽処未曾帰。 帰りてわずかに尽くるところ、いまだかつて帰らず。

帰帰到底帰無了、 帰り帰りて到底するも帰ること了する無し、

爲問君従何所帰。 問いを為さん、君いずれにところより帰らんとするか。

 存在するものは、どんどん行ってしまうのだが、まだすべてが行ってしまっているわけではないぞ。

 行ってしまうものがどうやら消滅したか・・・と思っても、まだ行ってしまっていないのがいるのだ。

どんどん行くのだが、ものすごく行ってしまってもまだ行ってしまうことに終わりはないのだ。

さて、質問です。あなたさまがどこかに行こうとして出発する、ここはいったいどこなのかな?

ここは実在する現実世界・・・あれ? それを構成しているものがどんどん入れ替わって行くのに、ここに世界なんて実在しているんだっけ?

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と、ナゾナゾみたいなこれは、ナゾナゾ学校の机の落書き、ではなくて、李氏朝鮮初期の奇妙な儒者・徐花譚先生「花譚集」より「有物詩」

来るもの、行くものは永遠に一所にとどまることがない。行ったり来たりの移動でさえないのカモ知れません。あちら(「彼岸」)に行って、戻ってくるのではなくて、次のまたあちらに行くのカモ。そんな遠くはこちらからは見えませんが、ここよりはいい場所なのカモ。

徐花譚先生、名は敬徳、字・可久、李朝成宗二十年(1489)の生まれ、松京(現代の開城)郊外の花譚に隠棲したので、花譚先生と称せらる。明宗元年(1546)に亡くなった。彼の生涯の間には、戊午士禍(1498)、甲子士禍(1504)、己卯士禍(1519)、乙巳士禍(1545)という内戦級の政権党争が起こって、多くの「士」(ソンビ)が殺されており、先生はこれらの影響でイヤになって、

聒聒岩流日夜鳴、 聒聒(かつかつ)として岩流、日夜鳴り、

如悲如怨又如争。 悲しむがごとく怨むがごとく、また争うが如し。

世間多少銜冤事、 世間多少の銜冤のこと、

訴向蒼天憤未平。 蒼天に向かいて訴うるも憤(いか)りいまだ平らがず。

 「聒」(カツ)は「うるさい、かまびすしい」。

 この渓谷の岩を流れる水は、昼も夜もざわざわとやかましい。

 悲しんでいるようにも聞こえるし、怨んでいるようにも聞こえるし、争っているようにも聞こえる。

 おれもこの世の中にいろんな恨みつらみがあるので、

 青空に向かって訴えてみたが、それでもまだ腹がおさまらぬ(から、もう隠棲するわ)。

と書いて(「渓声」)隠棲してしまったそうです。詩には北宋の特異な思想家・邵康節、世界観には同じころ気一元論に拠った張横渠の影響が強く認められる。

・・・それはそれとしまして、明日は行ってしまった肝冷斎のかわりにわしに職場に来い、じゃと? こ、これはいかん、責任をとらされ精神的にツブされてしまうかも・・・そうじゃ、コドモのふりをしよう。

わーい、おいらコドモだから、よくわからないまま楽しい場所だと誤解して、チゴトに行ってみまーちゅ。でも責任能力は無いのでよろちくー。

 

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