平成28年3月23日(水)  目次へ  前回に戻る

←「お花ブタケ」。なお、今日のお話↓はブタの方の責任ではない。

仕事の方では、間違ったことをしてしまったようなので、責任をどうとるかということが問題となってきています。

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昨日まで「華厳経」のお話をしましたので、今日もせっかくなので「華厳経」関係のお話をします。

王安石に「華厳経」を解説した「華厳経解」という著作があったのだそうで(今は遺っていないようです)、その中に

仏語深妙、菩薩語不及。

仏の語は深妙にして、菩薩の語は及ばず。

如来さまのおっしゃるコトバは深く妙なる意味を持っている。さすがに菩薩さまのコトバはそれにはかなわない。

という一節があったそうなんです。

王安石とほぼ同輩の蘇東坡が済南の地を通ったとき(熙寧十年(1077)のことだそうです)、宋宝国という税務監督官がいて、彼がこの王安石の文章を紹介して、

公之于道、可謂至矣。

公の道における、至れりと謂うべきなり。

王安石さまの仏道理解はすばらしい、と申し上げるべきでしょうね。

と言い出した。

そこで、蘇東坡は言った。

予于蔵経取仏語数句、置菩薩語中、復取菩薩語置仏語中、子能識其是非乎。

予の、蔵経より仏語数句を取り、菩薩語中に置き、また菩薩語を取りて仏語中に置くに、子はよくその是非を識るや。

「わしが膨大な大蔵経(だいぞうきょう。仏教経典全集)の中から如来さまのコトバをいくつか取り出してこれを菩薩さまのコトバの中に混ぜ込んでしまう。また、菩薩さまのコトバをいくつか取って如来さまのコトバに入れてしまう。おまえさんは、それを読んで、「あ、これは違いますね、あ、これはそのとおりですね」とわかるかね?」

宋宝国は答えた、

不能也。

あたわざるなり。

「そんなことはムリですよ」

非独子不能、荊公亦不能。

独り子のあたわざるのみにあらず、荊公もまたあたわざらん。

「おまえさんだけではない、荊公・王安石だってムリじゃろう」

そして、次の話を続けたのである。

・・・わしはむかし陝西の岐山にいたとき、

聞汧陽猪肉至美。

聞く、汧陽(けんよう)の猪肉至美なり、と。

同じ陝西の汧陽県のブタの肉はたいへん美味い、と聞き及んだ。

そこで、ひとをやってそこのブタを買いに行かせたのじゃ。

ところが、

使者酔、猪夜逸。置他猪以償、吾不知也。

使者酔い、猪夜逸す。他の猪を置きて以て償うも、吾知らざるなり。

この使いのやつが酔っぱらって、夜、買ってきたブタを逃がしてしまったのじゃ。そこで他の産地のブタを代わりに買ってきたのだが、そのことをわしは知らなんだ。

わしはこの買ってきたブタを料理して宴会を開いた。

そして、

与客皆大詫、以為非他産所及。

客とみな大いに詫(おどろ)き、以て他産の及ぶところにあらず、と為せり。

お客たちとみんなで大いに驚いて、

「いやー、ほかのところのブタの及ぶところではございませんなあ」

と言い合ったのであった。

数日後、

已而事敗、客皆大慙。

すでにして事敗れ、客みな大いに慙(は)ず。

そのブタが別の産地のブタだということがばれてしまい、(わしも)客人たちも、大いに気まずい思いをしたのであった。

さて―――

今荊公之猪、未敗爾。

今、荊公の猪はいまだ爾に敗れざるならん。

今のところ、王荊公のブタは、おまえさんにはまだ正体がばれていないようである。

けれども、

屠者買肉、娼者唄歌、或因以悟。若一念清浄、墻壁瓦礫皆説無上法。而云仏語深妙、菩薩不及、豈非夢中語乎。

屠者は肉を買い、娼者は歌を唄うに、あるいは因りて以て悟る。もし一念清浄ならば、墻壁瓦礫みな無上法を説くなり。而して「仏語は深妙にして菩薩及ばず」と云うは、あに夢中の語にあらざらんや。

屠殺を業とする者は肉の売買、娼妓は歌曲をうたうという行為、時にはそんな中でも悟りに至ることがあるのである。もしも一念に清浄な心でいるならば、垣根や壁や瓦やいしころなど、すべてがこの上ない教えを語っていると認識することがあるのだ。それなのに、「如来のコトバは深くして妙なるものだが、菩薩のコトバはそれにはかなわない」などと言っているのは、まるで夢の中でのコトバのように取り留めのないものではなかろうか。

宋宝国はわしのコトバを聞いて、

唯唯。

唯唯(いい)。

「なるほど、なるほど」

とうなずいていたものであった。

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宋・蘇東坡「跋王氏華厳経解」王氏の華厳経解に跋す)(「蘇軾文集」巻六十六所収)より。

ブタの産地をごまかしてはいけません。責任問題になりますよ。

 

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