平成28年1月18日(月)  目次へ  前回に戻る

ダチョウ図。この鳥が孤絶しながらも肩を聳やかす姿は、感動的ではないか。

起きたら雪でした。出勤してシゴトしたけど、最悪の状況は何にも変わってない気がする。

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今日は雪のうたでも読んで、寝ましょう。

宋・秦観「憶秦娥・灞橋雪」「秦娥を思う」の節で・灞橋の雪)。

雪の日に、

驢背吟詩清到骨、 驢背に詩を吟ずれば清きこと骨に到るも、

人間別是フ勲業。 人間(じんかん)には別にこれ、勲業をフ(うかが)うあり。

ロバの背中で詩を吟じていれば、清冽な気分が骨までしみわたるものだが、

人間世界にはそれとは別の尺度があって、勲等やら業績やらを気にしているひともいるらしい。

まあいいや。

雲台煙閣久銷沈、 雲台・煙閣、久(おお)われて銷沈し、

千載人図灞橋雪。 千載ひとは図(えが)く、灞橋(はきょう)の雪。

空にそびえる展望台や楼閣も、(雪に)覆われて白く沈んでいるばかり。

千年前から多くの画人が、この灞橋の雪景色を描いてきたのだなあ。

「灞橋」は唐のころ、長安の東、灞水にかかっていた橋で、送別の場所としても有名であったが、「灞橋詩思」(灞橋の詩情)の故事成語で名高い場所です。

―――「全唐詩話」にいう、あるひと、詩人として名高かった鄭綮に問うた。

近為新詩否。

近く新詩を為るや否や。

「最近、新しい詩はできましたかな?」

鄭綮答えて曰く、

詩思在灞橋風雪中、驢子上、此何以得之。

詩思は灞橋の風雪中、驢子上に在り、これ何を以てこれを得ん。

「詩情は灞橋の風吹く雪の中、ロバの背の上にあります。それをどうやって手に入れてくるかだが・・・」―――

この会話から、「灞橋詩思」あるいは詩情の湧くことの比喩として「灞橋驢上」「灞橋風雪」という四字熟語が出来ました。

さて、ここまでは七言絶句の「詩」でした。秦観は、この小粋な詩を「序文」代わりにして、このあとに「憶秦娥」という「詞」を付けたんです。

灞橋雪、      灞橋の雪、

茫茫万逕人蹤滅。  茫々として万逕に人蹤滅す。

人蹤滅、      人蹤滅し、

此時方見乾坤空闊。 この時まさに見る、乾坤の空闊を。

 灞橋に雪が降る。

はるばると、あらゆる道に人の足跡もない。

人の足跡も無く、

いまこのとき、天と地の広大な姿をこの目で見る。

騎驢老子真奇絶、  驢に騎(の)る老子まことに奇絶、

肩山吟聳清寒冽。  肩山吟じて聳やかすれば清寒は冽たり。

清寒冽、      清寒は冽なれども、

祇縁不禁梅花撩撥。 ただ縁りて禁ぜざるは、梅花の撩撥(りょうはつ)なり。

(この雪の中)驢馬に乗っているじじい(作者自身)はほんとにおかしなやつじゃなあ。

肩の山を、歌いながらそびやかすと、(人間性と風雪と相混じって)清冽な寒さがほとばしる。

清冽な寒さがほとばしるが、

それでもただ一つ、おしとどめることができないのだ。梅の花が(風雪の中で)乱れ開きはじめることだけは。

天地の間に孤絶して詩を吟じるじじい(すなわち自己)の歌声の中、その意思とは無関係に一点の春が訪れつつあるのである。

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明日の朝も寒いらしいので、そんな日に出勤するこのじじいはほんとにおかしなやつじゃなあ、と嘲笑されるカモ知れません。

秦観、字は少游、北宋の蘇東坡の「四友」の一人ですが、その詩も詞も「愁い多く怨み多い」と評され、人生に余裕を持とうとした蘇東坡らの詩詞とは一線を画すとも言われます。彼も蘇東坡一派として新法党の目の敵にされ、遠く海南の雷州に遷されていたが、ようやく許されて都に帰る途中、広西で亡くなった。死の直前、「客道夢中作」(旅路の夢の中で)を作り、

酔臥古藤陰下、了而不知南北。

酔うて臥す古藤の陰下、了して南北を知らず。

酔って藤の老木の陰に寝ていたが、醒めて南と北がわからない。(わたしの旅路はどこに行こうとするのだろうか)

とうたって、水を求めた。水が持って来られるともはやそれを飲むことができず、わずかに微笑んで、卒したという。五十三歳。(「宋史」本伝

 

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