平成28年1月18日(月)  目次へ  前回に戻る

笑っていられる状態ではないんです!

今週はたいへんだよー。わたしの経験の中でも屈指のツラい週になりそう。しかも寒そう。

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少しは暖かくしてみましょう。南の島のものがたりして。

保元之乱、故将軍源朝臣義家孫廷尉為義子為朝竄伊豆州。

保元の乱ありて、故(もと)の将軍・源朝臣義家の孫、廷尉・為義が子、為朝、伊豆州に竄(のが)る。

保元の乱のあと、かつての将軍・源義家の孫の検非違使・為義の子の為朝さまは、伊豆の島に逃れた。

実際は流された。

為朝さまはその後、平氏が権力をほしいままにし、天皇家の権威が日々に衰えていくのをみて、

常憤憤欲復祖業、因浮海上、略諸島之地、遂至南島。

常に憤々として祖業を復せんと欲し、因りて海上に浮かびて諸島の地を略し、ついに南島に至る。

つねにムカムカして、いつかは武家の棟梁としてのご先祖の地位を回復したいものと思って、海の上に浮かび、伊豆の諸島を次々と侵略、さらに南西諸島にまで達したのでありました。

為朝為人魁岸絶力、猨臂善射、南島人皆以為神、莫不服者。

為朝、人となり魁岸にして絶力、猨臂(えんぴ)にして射を善くし、南島人みな以て神と為して、服せざる者なし。

為朝さまは、その人となりはでかくて強く、力は普通ではなく、サルのように左右の腕が伸び縮みして弓が上手であったから、南西諸島の住民たちはみな「この方は神様では」と思い、従わない者は無かった。

南の島々をも征服したのでした。

而還、居未幾、官兵襲攻之、竟自殺。

しかして還り、居ることいまだ幾ばくならずして、官兵これを襲攻し、ついに自殺せり。

そうして伊豆大島に帰っていたのですが、しばらくしたとき、平氏の軍が攻めてきたので、衆寡敵せずとしてついに自殺なさったのでございます。

以上は「保元物語」などを総合して考察してみました。(実際には「保元物語」には為朝さまの南島行きの記述は無いそうです)

さて、ところで、この為朝さま、伊豆で作ったコドモは一緒に滅びましたが、いま一人、

有遺孤在南中。

遺孤の南中に在る有り。

男の子を一人、南の島の真ん中に遺していたのでございます。

母大里按司妹、育于母氏。幼而岐巍、有乃父之風。及長、衆推為浦添按司。

母は大里按司の妹にして母氏に育せらる。幼にして岐巍(ききょく)、乃父の風有り。長ずるに及びて衆推して浦添按司と為る。

その子の母は沖縄島南部の大里(うふさと)のお殿さまの妹君。幼い時から体がでかく、おやじによく似ていた。オトナになると、仲間に推されて浦添(うらそい)の殿さまとなった。

方是時、諸島兵起、戦闘不息。按司年二十二、乃率其衆、一匡清乱。

この時にあたって諸島の兵起こり、戦闘息まず。按司年二十二、すなわちその衆を率いて一匡して乱を清(しず)む。

このころ、ちょうどあちこちの島でいさかいが起こり、いくさが止まなかった。この殿さまは二十二歳であったが、仲間を率いてひとたび鎮圧に乗り出し、もろもろのいさかいをお鎮めになったのである。

こうして、

挙国尊称、以為王。舜天王是已。是歳、文治三年也。

国を挙げて尊称し、以て王と為せり。舜天王、これなり。この歳、文治三年。

南島のひとびとはこぞって誉め尊び、「王さま」にした。沖縄の最初の王さまである舜天王がこのひとである。文治三年のことであった。

さて。

以上は中山国の記録ですが、今度は鎌倉幕府の「東鑑」(あづまかがみ)を閲するに、

文治四年夏五月、貴賀井島降。

文治四年夏五月、貴賀井島降る。

文治四年(1188)の夏五月、貴賀井(きがいしま)を征服した。

とある。

先是源頼朝欲撃貴賀井島、衆諫之、乃已。

是れより先、源頼朝、貴賀井島を撃たんとし、衆これを諫めてすなわち已む。

これより以前に、源頼朝さまは、きがいしまを攻撃しようと思い立ったのですが、あまりに遠いので、みなで諫めてあきらめさせた。

それが、

是歳春三月、鎮西人藤信房献島地及海路図、且請撃之。遂命西海鎮将藤遠景及信房等、率兵撃之。島人乃降。

この歳春三月、鎮西人・藤信房、島地及び海路図を献じ、かつこれを撃たんことを請う。遂に西海鎮将・藤遠景及び信房等に命じて、兵を率いてこれを撃たしむ。島人すなわち降れり。

この年の春三月になって、九州のひと・藤原信房(※)が、島の地図とそこまでの海路の図を届けてきて、「征伐しましょう」と言ってきた。そこで、ついに鎮西奉行の藤原遠景(※※)と信房らに命じて、兵を率いて攻撃させたところ、きがいしまのやつらは降伏してきたのであった。

※平家追討のあと、薩摩守となっていた関東出身の御家人・宇都宮信房。

※※これも平家追討に功績あり、鎮西奉行となっていた御家人・天野遠景。

其事適当舜天為王之初、而東鑑所載止此。不得其詳以俟後考。

その事、舜天の王たるの初めに適当するも、東鑑の載するところこれに止まる。その詳を得ず、以て後考を俟たん。

この事件は、ちょうど舜天さまが王さまになった初期のことになるわけだが、「吾妻鏡」ではそのことには触れていない。どうしてなのかよくわからんので、これから勉強しまーちゅ。

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新井白石「南島志」より。昨年11月、平凡社東洋文庫に原田信男先生の校注本が出たんで読んで勉強してます。ツラい現実から逃れる一助になれば、とて。(参考→舜天丸

 

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