平成27年5月24日(日)  目次へ  前回に戻る

タコヤキ王。東方にはこんな王さまもいるかも。

いい天気でしたなあ。うははは。今日も昼はしうまい弁当。・・・と笑っているうちに明日はもう月曜。(T_T)

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月曜日だからイヤなわけではないんです。

山不在高、有僊則名。水不在深、有龍則霊。

山は高きに在らず、僊あればすなわち名あり。水は深きに在らず、龍あればすなわち霊なり。

山は高いから称賛されるのではなくて、仙人がいるから称賛されるのである。

水は深いから神秘的なのではなくて、龍が棲んでいるから神秘的なのである。

という有名なテーゼがあります。

このテーゼを自分の部屋に当て嵌めると、

斯是陋室、惟吾徳馨。

これこの陋室、ただ吾が徳の馨(かんば)しきなり。

このキタナくてむさくるしい部屋も、ただわたしの徳があれば香りたつのである。

なので部屋がキタナくても、いいのだ。

この部屋は、

苔痕上階緑、艸色入簾青。

苔痕の階に上りて緑に、艸色(そうしょく)の簾に入りて青し。

苔のあとはきざはしに昇ってきていて、そこは緑色に、草の色はカーテンを通して入ってきて、青い。

談笑有鴻儒、往来無白丁。

談笑には鴻儒(こうじゅ)有りて、往来するに白丁(はくてい)無し。

部屋の中で笑い語り合うのは、すぐれた学者ばかりで、やってくる人に無意義な下人どもはいない。

可以調素琴、閲金経、無絲竹之乱耳、無案牘之労形。

以て素琴を調(ととの)うるべく、金経を閲(けみ)すべくして、絲竹の耳を乱す無く、案牘の形を労する無し。

この部屋は、白木のままの琴のしらべを調整し、黄金のように貴重な古典類を読むこともできるのだ。そして、豪勢な管弦楽の合奏で耳を乱されることも無く、公文書が回ってきて心身を疲労させられることも無いのだ。

すばらしいのである。

南陽諸葛廬、西蜀子雲亭。

南陽の諸葛が廬か、西蜀の子雲が亭か。

南陽に隠棲しているころの諸葛亮(孔明)の庵と同じである。西方の蜀の成都で学問に励んでいた楊雄(子雲)の休憩室とどこが違うであろうか。

楊雄については昨日の記述を参照ください。

孔子云何陋之有。

孔子云う、「何の陋か、これ有らん」と。

孔子がおっしゃっておられる。

「(君子がそこに住んでいるのなら)どうしてキタナくむさくるしい、ということがあろうか」

と。

以上。

最後の孔子のコトバは、「論語」子罕編にいう

子欲居九夷。或曰陋如之何。子曰、君子居之、何陋之有。

子の九夷に居らんと欲するあり。あるひと曰く「陋なり、これを如何せん」。子曰く「君子これに居れば、何の陋がこれ有らん」と。

先生は一時、東方の九つの異民族たちがいる地方に亡命しようとお考えになったことがあった。

ある人が諌めて、

「あそこはキタナくてむさくるしいです。どうしようもありません」

と言ったところ、先生がおっしゃった。

「君子がそこに住んでいるのなら(@AB)、どうしてキタナくてむさくるしい、ということがあろうか」

と出てくるコトバ。

この「君子これに居れば」は、@唐代までの注は「(東方は君子の国であり)立派なひとはそこにもいるだろうから・・・」と解しています(詳しくはこちらを→24.1.31)が、A宋の朱晦庵先生は「君子」を孔子自身のことだと解して「立派なわしがそこにいれば・・・」という(酷い)解釈をしていますが、B宮崎市定先生の言うように弟子たちに対して「君子」と呼びかけたのだ、と考えて「立派なおまえたちが一緒にいてくれたら・・・」と解するのが一番いいのかな、と思っております。

―――ということで、キタナイ洗練されていない部屋でも国でも、棲む人が気高ければ気高い部屋や国になるのである。

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唐・劉禹錫「陋室銘」「古文真宝」後集より)

山が高いから称賛されるのではなく仙人がいるから称賛されるんです。月曜日がイヤなのではなくシゴトがあるからイヤなんです。シゴトの無い生活になったら月曜日も好きになれるかも。

 

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