平成27年4月10日(金)  目次へ  前回に戻る

(←高尚に生きる)

やっと週末。しかしもう来週が近づいてきている。

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宋の劉卞功(りゅう・べんこう)は字を子民といい、濱州安定の人である。

六歳のとき、誤まって甕(カメ)を倒し、これを破砕してしまったことがあった。

家人がこれを叱ると顔色を変えもせずに、曰く

俟釘校者来、当全之。

釘校者の来たるを俟(ま)ちて、まさにこれを全うすべし。

釘校(ホ)」は「かなもの師」のこと。

「かなもの師さんがもうすぐ来まちゅからね。彼が来たらもとに戻してあげまちゅよ」

と。

「誰がかなもの師なんか呼ぶものか。陶器である甕を直せるはずがないだろう」

と家人らは怒ったが、子民答えて曰く、

人破尚可修、矧甕耶。

人破るれどもなお修むべし、いわんや甕をや。

「ニンゲンが壊れても直せるんでちゅよ。どうしてカメが直せないことがありまちゅか」

このコトバが終わるや否や、誰も呼んでいないのに金物師がやってきた。金物師は六歳の子民となにやらかにやら相談していたが、

相与料理、頃之如新。

あいともに料理して、頃之に新たなるが如し。

二人でいじくっているうちに、甕は、しばらくしたら新品のように完全なものに戻った。

そのような不思議なコドモであったが、成人の後、あるとき言うに、

常人以嗜欲殺身、以貨財殺子孫、以政事殺民、以学術殺天下後世。

常人は嗜欲を以て身を殺し、貨財を以て子孫を殺し、政事を以て民を殺し、学術を以て天下後世を殺す。

一般に人というものは、

1)嗜好や欲望のせいで自分の体をダメにしてしまう、

2)財産を貯め込んで子孫をダメにしてしまう、

3)まつりごとを通して人民をダメにしてしまう、

4)学術を主張して天下の後世の学者を騙し、ダメにしてしまう。

これを「四殺」というが、

吾無是四者、豈不快哉。

吾この四者無し、あに快ならざらんや。

わしにはこの四つが無いのだ。なんとここちよいことではないかね。

―――と。

そうして

築環堵于家之後圃、不語不出者三十年。

環堵を家の後圃に築き、語らず出でざるもの三十年なり。

自宅の裏庭に塀で囲んだ一画を作ると、そこに入り込んで出てこず、誰ともことばを交わさずに三十年を経た。

ヘンなひとである。

ヘンなひとだ、という評判が高くなった。

徽宗皇帝、そのことを聞き、召し出だそうとしたが辞したので、「高尚先生」の号を賜った。

後、金が攻め込んで靖康の変(1126年)が起こり、北宋が滅んだ。子民はそのころふいと姿を消してしまい、その後その行方を知る者はいない。

姿を消す以前に、親戚の王子常が「おじさん、おいらどうやって生きていけばいいのかなあ」と問うたとき、答えた詩が遺る。すなわち、

非道亦非律、 道にあらずまた律にあらず、

又非虚空禅。 また虚空の禅にもあらず。

独守一畝宅、 ひとり一畝の宅を守り、

惟耕己心田。 ただ己の心田を耕すのみ。

 道教もいかがなものか、律を守る仏法もいかがなものか。

 また、(律にはうるさくない)虚空を求める禅仏教もいかがなものか。

 わしはたった一人、小さな家に籠り、

 自分自身の「心」という田を耕し続けているばかりだ。

口にして、噛みしめ、味わうべきコトバである。

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宋・趙与旹(ちょう・よじ)「賓退録」に拠る(清・殊L編「宋詩紀事」巻九十所収)。

「ニンゲンが壊れても直せる・・・」か。おいらみたいに壊れていても直せるのかな? まあ、直しても月曜日にはまた壊れるんだから、ムダか。

 

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