平成26年8月7日(木)  目次へ  前回に戻る

ホッフー

とにかくしごとはひどいことになってきたぞ。感情は無い。

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昨日からまたまた続きます。

フクロウの言葉(の憶測)が続く。ホッホ。

小智自私兮、賤彼貴我。   小智は自私し、彼を賤しみて我を貴ぶ。

達人大観兮、物無不可。   達人は大観し、物として不可なる無し。

 小賢しいやつは自分のことばかり考えるから、他者を見下し自分を尊ぶものだが、

 本当にわかったひとは大局から見るので、どんな事態であっても対応できるのだ。

貪夫殉財兮、烈士殉名、   貪夫(たんぷ)は財に殉じ、烈士は名に殉じ、

夸者死権兮、品庶毎生。   夸者(こしゃ)は権に死し、品庶は毎生す。

怵迫之徒兮、或趨東西、   怵迫せらるるの徒は、あるいは東西に趨るも、

大人不曲兮、意変斉同。   大人は曲せざれば、意変ずれども斉同なり。

欲深者は財産のために命を失い、激しいひとは名誉のために命を失い、

虚名を誇る者は死ななくてもいいところで死ぬが、凡人たちはいつも生き残る。

また、利に誘われ(「怵」)たり貧窮に迫られたやつは、東へと西へと走り回っているが、

懐深い人は素直であるから、どんな思いから行動したとしても、いつも天地の動向と同じ方向に向かう。

「大人」を「至人」に言い換えますと、

愚士繋俗兮、窘若囚拘、   愚士は俗に繋りて、窘(くるし)みて囚拘のごときも、

至人遺物兮、独与道倶。   至人は物を遺りて、独り道と倶にす。

愚かなおとこは世俗のことにひっぱられて、まるで囚人のように苦しんでいるものだが、

最高のひとは他者を忘れてしまい、ひとり大いなる「道」とともに生きている。

ほとんど意味的には繰り返しになりますが、「至人」を「真人」に言い換えますと、

衆人惑惑兮、好悪積億、   衆人惑惑として、好悪億を積むも、

真人恬漠兮、独与道息。   真人恬漠として、ひとり道と息(やすら)う。

 そこらのひとたちはみな惑いながら、好感と憎悪をどんどん積み上げっていってしまうが、

 真理を体得した人は欲も無く何かにこだわることも無く、自分ひとりで大いなる「道」のそばで安らっているのだ。

「真人」なるものは、

釈智遺形兮、超然自喪、   智を釈き形を遺(わす)れ、超然として自ら喪い、

廖廓忽荒兮、与道翺翔。   廖廓(りょうかく)の忽荒(こつこう)たるを、道と翺翔(こうしょう)す。   

 智慧を捨て去り、身体に拘束されることもなく、すべてを超越したところで自分自身を棄ててしまい、

 世界の根源の虚空の中を、大いなる「道」とともに飛び回っている。

「廖」は「深い」こと、「廓」は「空間」、「忽荒」は「元気」(根源物質)がまだ陰陽に分かれていないドロドロした状態をいう(そうです(李善の注による))。

乗流則逝兮、得坻則止、   流れに乗じてはすなわち逝き、坻(ち)を得ればすなわち止まり、

縦躯委命兮、不私与己。   躯の縦(ほしいまま)にして命に委ね、己と私せず。

 流れに乗ったときにはどんどん流れて行き、小島にぶつかるとそこで止まり、

 外形はほしいままに自然に任せて、自分の私意を働かせることはしない。

其生兮若浮、   その生くるや浮くがごとく、

其死兮若休。   その死するや休むがごとし。

 彼の生き方は水に浮いているようで、死は休息のようなものである。

淡乎若深泉之静、   淡として深泉の静かなるがごとく、

泛乎若不繋之舟。   泛として繋がれざるの舟のごとし。

 その淡泊で無欲なること、深い池に波も立たない状態のようであり、

 その水に浮くような生き方は、どこにもつながれていない舟のように自由なのだ。

不以生故自宝兮、養空而浮。  生を以てせず、故に自ら宝とし、空を養いて浮かべり。

 無理に生きようとしない、だから自分を貴ぶことができ、心の中の空虚を養うから舟のように浮かぶことができるのだ。

結論。なお「真人」を「徳人」と言い換えます。

徳人無累、知命不憂。   徳人は累無し、命を知りて憂えず。

細故帯芥、何足以疑。   細故の帯芥は何ぞ以て疑うに足らん。

徳あるひとは、何かに引っ張られるということが無いから、自分の為すべきことを知っており、悩み苦しむことがない。

こまごました「帯芥」のことなど心配する必要はないのじゃよ。

「帯芥」(たいかい)は、「刺鯁」(シコウ)のことだそうです。「刺鯁」というのは、魚のとげとげした「ノギ」のことです。「ノギ」は実物見ないとわからないかも知れませんが、要するに「小さなトゲ」のこと。「小骨」とでも意訳した方がいいのかも知れません。すなわち、

こまごました小骨のことなど心配する必要はないのじゃよ。

ホッホー。(要するに、どうせどこかに去って行かねばならぬのじゃから、生死や得失を超えて、「徳人」(達人、大人、至人、真人)になるといいのじゃぞ。)

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以上です。「文選」巻十三所収、漢・賈誼「鵩鳥賦」。くどくどと同じようなことを繰り返していい加減飽きてきますが、「兮」という助字と四字句の繰り返しに特徴のある不思議な「文学」だなあ、というイメージはおつかみいただけたのではないでしょうか。この「鵩鳥賦」は深い老荘思想を背景にしながら、滅びの予兆を散りばめ、「楚辞」の流れを汲む古風な「詩」として、古来多くのファンを擁しています。ので、みなさんもちょっとは評価してあげてください。

・・・さて、ゲンダイに戻ります。

わたしの庵にやってきた、フクロウのホッフさん。漢の時代に賈誼のところに現れたフクロウの子孫に当たる方ですが、せっかくですのでこの方に質問してみます。

「ホッフさん、御先祖はああ言ってますが、でも実はこまごましたことが命とりになるんですよね。そんなことで自○したり病気になったり行方不明になったりするひとの何と多いことか。このわしもこのままではしごとで追い込まれ・・・」

ホッフさんはアタマを挙げ、羽をばたばたさせて、

「ホッフー、肝冷斎よ、わしらフクロウが凶兆だというのは、悩み苦しんでいるニンゲンのもとを好んで訪れるからなのじゃ。放っておけば自らを苦しめ、破滅に至るであろうニンゲンのもとを訪れて、何等かのヒントを与えるのがわしらフクロウの業。

そのわしらの与えるヒントに気づいたか気づかなかったか、いずれにせよ行動を起こせなかった者は、その後破滅に至るのであるから、わしらは凶兆に見えるであろう。逆に行動を起こしてシアワセに至った者たちからは、わしらは「福を呼ぶフクロウのフクちゃんでちゅー」などと呼ばれるのである」

「ほほう、ホッフさんが「福を呼ぶフクちゃん」だと・・・」

「肝冷斎よ、先祖の言葉を繰り返すぞ。万物は変化して少しも休むことが無いのじゃぞ。どうして財のために命を失い、名誉のために命を失う人生を送ろうとするのか」

そういうとホッフさんは

「ホッフー」

と言いまして、また窗から出て行った。

「むむう」

あとは行動するかどうか、でわしはシアワセになるか破滅するかが決まる、というわけである。わしは腕組みして、ホッフの飛んで行った夜の闇を見つめるばかりであった。

・・・ちなみに、賈誼がこの後どうなったか、が知りたいひとは「漢書」か「史記」を買ってきて「賈誼伝」を読むとわかるよー。

 

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