平成26年8月6日(水)  目次へ  前回に戻る

いろいろシゴトとワタクシゴトの問題は増えるばかり。先は見えず。感情無くなってきた。

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一昨日の続きです。

フクロウの言うこと(を憶測する)に、

万物変化兮、固無休息、  万物は変化し、もとより休息無く、

斡流而遷兮、或推而還。  斡流して遷り、あるいは推して還る。

 すべてのものは変化していき、わずかにも止まることはない。

 転がり流れて遷っていき、あるいは押され、あるいは戻っていくものじゃ、ホッホ。

禍兮福所倚、          禍は福の倚るところ、

福兮禍所伏。          福は禍の伏するところなり。

憂喜聚門兮、吉凶同域。   憂いと喜びは門に聚まり、吉凶は域を同じうす。

 ワザワイはシアワセのよりかかるところであり、

 シアワセの蔭にはワザワイが隠れているもの。

 慶びを祝うひとが来たかと思えば、同じ家にやがて悔みのひとが来るのだ。吉事と凶事は同じ場で起こるのじゃ、ホッホ。

たとえば、春秋の終わりごろ、呉の国は強大を誇ったがその王・夫差は越国に破れ、越王勾践は会稽において世に覇を唱えたホ。

李斯は秦の丞相となったが、やがては身に五つの武器を加えられる極刑に処せられたホ。

一方、工事現場に投入されていた奴隷の傅説(ふえつ)は、殷王に見いだされてその宰相となっているホ。

禍之与福兮、何異糾纆、   禍の福と与るや、何ぞ糾纆(きゅうぼく)に異ならん、

命不可説兮、孰知其極。   命は説くべからず、だれかその極を知らん。

 ワザワイとシアワセとの関係は、ぐるぐると撚り合わされた「糾」(二本の紐を撚り合わせた縄)や「纆」(三本の紐を撚り合わせた縄)のようなものだ。

 運命というのものは説明することができない。最後がどうなるかについて、誰が知ることができのじゃろうか。

水激則旱兮、矢激則遠。   水は激しければ旱し、矢は激しければ遠し。 

雲蒸雨降兮、糾錯相紛。   雲蒸し雨降り、糾錯してあい紛す。

水の流れが速すぎると、やがて尽きて乾いてしまうし、矢の勢いが疾すぎると、的を射越してしまうものだ。(速ければいいというものではない)

雲はむしむしと上がって雨となって降り、入り乱れあって互いにまじりあっている。

万物はぐるぐる回り、揺れ動きあって果ても無い。造物主の大いなる台の上には万物が載せられているが、その台にあけられた穴には底が無く、あらゆるものがその穴に落ち込んでいく。

ああ、ホッホー。

天不可予慮兮、 天は予め慮るべからざるなり、

道不可予謀。  道は予め謀すべからざるなり。

天の考えをあらかじめ知ることはできないし、

道の計画をあらかじめ知ることもできないのだ。

天地為鑢兮、造化為工、   天地は鑢にして、造化は工なり、

陰陽為炭兮、万物為銅。   陰陽は炭にして、万物は銅なり。

天地は大いなる鑢(やすり)であり、時の流れは職人である。

 陰陽の変化は火を熾す炭であり、万物は熔かされる銅である。

合散消息兮、安有常則。   合し散じ消え息み、いずくにか常則あらん。

千変万化兮、未始有極。   千変万化して、いまだ始めより極有らず。

忽然為人兮、何足控搏、   忽然として人と為るも、何ぞ控搏に足らん、

化為異物兮、又何足患。   化して異物と為るも、また何か患うに足らんや。

 結合したかと思えばバラバラになり、消失したかと思えばゆったりと存在し、変化の規則性などまったくない。

 千変し万化し、始めから終局など予定されていないのだ。

 いまこの時にニンゲンの姿をとっていたとしても、それをいつまでも保持する必要など有り得ないし、

 今度はまったく別のモノに変化したとしても、少しもいやがる必要はないのじゃ、ホッホー。

ふくろうだからといってニンゲンよりイヤな状態ではないようです。(長くなってきましたし、感情も無いので、また明日に続く)

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「文選」巻十三より賈誼「鵩鳥賦」。今日は広島原爆忌。

 誰もいない古い壊れた地球の骨の上で

 その愛は誰をどんなに温めるのか

 その憎しみは誰をどんなに烈しく刺すだろうか。  (天野忠「ゼロ風景」)

 

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