平成25年5月18日(土)  目次へ  前回に戻る

 

肝冷斎は引き続きの頭痛。どうやらお酒の呑み方の問題ではなく風邪、あるいは風疹かインフルなどの症状を呈しておりますぞ。斑点も出ているし。おまけに今日はフィールドワーク中の「事故」により腰・肘などをいためたとして更新不能に陥りましたのじゃ。

そこで、今日は国学担当の暗闇亭大人(くらやみのやのうし)が久々に更新こそすれ。

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伊平屋島につきまして。

天明年間に著されました「衝口発」の中で藤井貞幹はかようにいうている。

按(ずる)に、(神武天皇の)御母・玉依姫は、海宮(あまみや)玉依彦の女にして、豊玉姫の妹也。鹽土老翁(しおづちのおきな)の計ひにて、彦火々出見尊(ひこほほでみのみこと←山幸彦である)を海宮に移しかくす内、豊玉姫を娶りて、葦不合尊(うがやふきあえずのみこと)生まれ玉へり。@此(この)海宮と曰(いう)は、琉球の恵平也島(えへやじま)を云う。

A恵平也島は天見島(あまみしま)。日本紀(日本書紀)に又、阿麻美・菴美に作り、続日本紀に奄美に作る。

B島の東北に山あり、これを天孫嶽と云う。土人(現地住民)云う、「この山上古神人の降臨の地、故に島の名とす」と。C神人の降臨と云うはすなわち彦火々出見尊の御事にて、日本紀等に天孫と称す。此れによりて天孫嶽、阿麻美島等の名あり。

されば玉依姫は、この島の豊玉彦の女にして、(古代チュウゴクのD呉の)太伯の裔この島に渡り、玉依姫を娶りて、神武帝生まれ玉ひ、神武帝は、即この島にて倭国等の事を知らしめ勃興したまふならん。・・・・云々。

この説はたいへんオモシロい。のですが、ダメダメです。

まずA「恵平也(伊平屋)」を「奄美」と断定しているところに間違いがありますので、@の根拠がありません。

さらにこの間違った断定に基づいて、これより六十年ほど前に書かれた碩儒・新井白石の「南島志」に「大島」の条に、

阿麻彌者上世神人名也。其東北有山、乃神人所降、因名曰阿麻美嶽。

阿麻彌(あまみ)なるものは上世の神人の名なり。その東北に山有りて、すなわち神人降るところ、よりて名づけて「阿麻美嶽」という。

「アマミ」というのは古代の神聖なるひとの名である。この島の東北に山があり、そこはすなわち神聖なるひと「アマミ」の降りたところで、それでその山の名を「アマミ嶽」という。

と「奄美大島」について記述があるのをそのまま「これは伊平屋島のことでーちゅ!だからB島の東北に天孫の降りた山がある(はずな)のでちゅ!」とし、さらに「神人」の「アマミ」は「天孫」のことであるから、C彦火々出見尊のことにして、「記紀の天孫降臨神話と引っ付けちゃえー!」。

ということでいわゆる神代三代の皇統が伊平屋にあり、しかもさらにこのあたりは緯度が福建に近いから、D「福建の近くにあった古代の呉の国の子孫にしちゃえー!」

と推定して作ったコドモ学説です。

「衝口発」の発表せられてより十数年後、寛政年間に伊勢のひと本居宣長大人(うし)がこの説を論じて、

何の拠もなき例の妄説也。

とオトナの立場から喝破なさっておられるのも致し方がない。(「鉗狂人」)

本居翁は「恵平也」を「奄美」なりとする説を否定した後、曰く、

天孫嶽(は)神人降臨の地といふを以て據とすれども神代の三世は日向国に坐まししかば、その間にたまたま琉球の地へも行幸せし事もありて、さる伝へのあるも知りがたし。・・・・為朝も皇国(みくに)の人にて、皇孫の源氏なれば、天孫の後といひ伝へて、かの天孫嶽といふはその天孫を祀れる地などにてもあるべし。

と、奄美の「天孫降臨説話」は朝廷がそこにあったのではなく、(ア)日向朝廷の行幸か(イ)為朝の名乗りであったのではないか、という説を唱え、

さればかたがたかの島に天孫嶽といふあればとても、かならず海神宮なる証にはいかでならむ。・・・・

と、「天孫嶽」があったとしても「海神の宮」があったことは証明できない、と論じ、

天孫嶽たとひ玉依姫には據あるにもせよ、(呉の)泰伯の裔には何の縁ある。 云々

と、なんでわざわざ倭人北進説を持ち出すのか、と批判した。

本居先生は明確に倭人南進説をとっておられたことがわかりますね。

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なお、藤井貞幹の説も本居宣長翁の説も新井白石先生の説も、すべて東恩納寛惇先生「南島風土記」(昭和25、昭和49註釈版(大同出版))より引いたのである。また引きでしたのじゃ。

そういえば肝冷斎も暗闇亭も知り合いの画家(しかも女流!)が琉球新報に載ってました。こんなエライひとだったのか!

 

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