沖縄観光記10 (起:平成25年5月2日(木))  目次へ  平成25年4月へ

さあて、そろそろ「本当のこと」が見えてきたりしてこないかな。
←何かいいことある・・・はず。

2日

昨日から神戸に入っております。本日は南京街視察のほか、

○湊川神社

に参拝。楠公殉難の地も拝し、「嗚呼忠臣楠公之墓」の碑とか光圀公の銅像とかも見てまいりました。「宝物館」は木曜休館のため入れず。20数年前(まだ震災前)に来たときも宝物館は閉まっていて観覧できなかった記憶あり。

←嗚呼忠臣楠公之墓碑。あんがい小さい。

3日

○亀山歴史資料館

←亀山城本丸附近(資料館内復元模型)より。

○伊勢神戸城

←神戸城天守台。中世神戸城はノブナガさまの三男・三七丸信孝さまが神戸氏を継いで入城。五層金箔瓦の天守閣があったそうである。その後天守は信孝さまとともに桑名に遷され、信孝さまはヒデヨシの策謀によって自刃。神戸城には江戸期に一柳氏・石川氏・本多氏が入った。

○能褒野神社・日本武尊陵

ヤマトタケルさまが白鳥に変じてこのあたりに降りたので、妻子たちが陵を営んだということである。

←能褒野御陵に昇る参道。本居宣長は附近の白鳥古墳説らしいですが宮内庁はこの能褒野陵を「景行天皇皇子日本武尊陵」としているらしい。

5日

○五か所城、愛洲館(資料館) ・・・ 南勢・五か所に割拠せし南朝の忠臣・愛洲家は熊野水軍・伊勢国司北畠氏などと結んで伊勢守護を務めたが、中世末(1576と伝う)、北畠信雄(織田氏)により滅ぼされたのである。
その本拠五か所城を探索す。450年前に廃城になったはずなのですが掘割等明確で驚いた。
五か所城跡の麓に五か所地域の歴史資料館である「愛洲館」あり。15世紀〜16世紀の愛洲移香斎の伝記等を伝う。移香斎は30ぐらいまで就職もせず諸国を放浪し、あるとき日向鵜戸権現(鵜戸神社)の洞窟にて三七21日間の参籠をせしに、その満願の日、天井よりクモがつつつーと降りてきた。つかもうとするがふわふわと空気に乗って動き、摑むことができない。そのクモに姿に

―――これか!

と閃いて、剣術・影流を創始。
その後、常陸にて佐竹氏に仕え、上泉伊勢守に奥義を伝える。伊勢守は影流をもとに新蔭流を案出、さらにこれが柳生一刀斎に伝わって柳生新蔭流となるなど、200の流派の祖となったのである。子孫は佐竹氏の移封に随って今も秋田にありという。

・・・ということで、もとこの五か所の生まれのひとであるが、日向や常陸に行って名をなした人である。ノマド(移動民)なんですね。

←五か所城跡。伊勢の国にとってノブナガさまは琉球国にとってのサツマのようなもののはずなのだが、特に誰も憎悪してないみたい。

○瑞賢公園 ・・・ 河村瑞賢出生地にあり。

○尾鷲神社 ・・・ 熊野古道の守護等としてスサノヲ神を祀るという。19世紀の数次のツナミで古文書を失っているそうであるが創建は相当古い(言い伝えでは8世紀初頭)ということである。境内神威びしびしとありて清らか、ヤーヤ踊り碑、天然記念物・夫婦クスノキなどあり。

←尾鷲神社社殿。背後もクスノキ。←夫婦クスノキ。

○尾鷲・九鬼浦、九鬼神社 ・・・ 九鬼一族発祥の地と伝わる九鬼集落の九鬼(菅原)神社に参拝す。大漁を祈る丸石(力石か?)を背中に乗せた巨亀と称する崇拝施設あり。

←社殿方面より正面鳥居・その先の海を見下ろす。

←竜宮の使い「亀」と称する崇拝施設。手前側の鳥居が頭とみなされるらしい。右手はしっこに「丸石」が見える。

○三木浦

今回は南勢・東紀の浦々の神社をめぐり、海岸のアシャギ型岩礁、浦の入口の立神型岩礁などの存在を調査。沖縄、北九州と同様の海人族文化の痕跡を確認するフィールドワークだったのである。

6日

○伊勢神宮外宮末社 @度会国御神神社・A大津神社

←@ A→

○伊勢神宮外宮別社 月夜見神社

10日

昼休みを利用して県立博物館にて「大嶺薫コレクション展 探求する心とその世界」を観覧す。明治38(1905)根路銘生まれの大城は戦前より沖縄関係資料を収集していたが、沖縄戦後、文化の荒廃を憂えてそのコレクションをもとに「沖縄陳列館」を開設。同館は米国民政府の「東恩納博物館」となり、大嶺はその館長に就任した(1958まで)。大嶺の没(昭和45年)後、大嶺薫美術館を経て昭和60年に沖縄県立博物館に寄贈されたそのコレクションの一部が展示されていたので、観てきたのである。

・勾玉類(特に聞得大君所持とされる青緑のやつすばらしい。欲しくなってしまったぐらい)

・古銭(鳩目銭の実物を初めて見た。また稀少なる琉球鋳造銭も現認せり。)

書幅

・嘉瓶(よしびん。酒徳利)

などに見るべきものあった。

11日

第一回伊平屋島+野甫島フィールドワークに来ております。

運天港近くの駐車場に車を預けて、雨中フェリーに乗った。前の席に座ったばばあ3人組のしゃべっている言葉がまったくわからんので韓国にもこんなに優しく語り合う人たちがいるのか、と驚ろいたが、3人組はほかのグループと声をかわすときは流暢な沖縄アクセントの標準語をしゃべる。また「海」「島」「船」などの基本単語が日本語と一致するので、「もしかしたら・・・」と注意深く聴いていたら宮古方言でした。以上。

←伊平屋島の南半分ぐらい。左から阿波岳、右側の奥が嘉陽岳、手前が腰岳。

○昼飯 ・・・ 港近くで昼飯を食うが、多大な盛り方である。

○伊平屋村歴史民俗資料館 ・・・ 館の人の説明を聞き、大いに学んだ。田名、前泊、我喜屋、島尻、野甫の5シマから成ることがわかった。腰岳周遊道路を通ってみるように勧められた。(その後、周遊道路を探すが現在通行禁止であったことが判明。はめられたか)

なお、守備兵ゼロであった伊平屋にも昭和20年6月、島伝いに日本軍が逃走するのを防ぐ目的で米軍が艦砲射撃と空襲を加え、約40人の戦死者を出しています。そのあと占領して田名の集落を除いて全部焼いてしまった(逃亡兵が隠れないように、ということなのかな)。当時の島の人口は5000人余、今は1500人であるという。

○前泊シヌグ堂 ・・・ 田名から分村した明治43年に拝所として設立したよし。

○マージャ御嶽 ・・・ 物理的に入れないので道路から拝む。前泊集落にあるがもともと田名のウンジャミの際の参拝所という。

マセヤ嶽御イベ  神名 アカラ森  (「琉球国由来記」

←このげげげの奥に何も無いような空間があるはず・・・。伊平屋はハブがかなりいるそうですので突撃は止めた。

○田名神社 ・・・ 田名のノロ殿内、アシアゲあり。鳥居あり。裏手の腰当山(集落を後ろから支えるように在る山)の山頂に田名城(うっかーぐすく)があり、そこそこいい道もあるので一見しようかと思ったが、黄色い蝶のイマシメあり。さらに田名区長名義で「この付近聖地のため無関係の者の立入を禁止す」という看板があったので、見つかるとマズそうなので戻って来ました。「無関係」の「関係」の意味を教えてくれるとより納得できるのですが・・・。

おそらく「琉球国由来記」の

ヲッ川嶽御イベ  神名 アフリ森

城嶽御イベ  神名 コシアテ森

のいずれか、または両方であろう。

ところで、上記の看板を発見してキビスを返したちょうどその時、単車で近づいてきた老人あり。これは確実に見張りんちゅと思われる。わしが戻ってくるとその後をつけるように単車でついてきて、わざと路地を曲がったり立ち止まったりしたら動揺していた(ように見えた)。だいぶん降りて来たところで追い抜いたが、そのあともゆっくり走り、ミラーでこちらを見ているのがよくわかりました。

集落のスーパー(いわゆる雑貨店)のあたりで見つけて通報があったタイミングか。知らない人に注意するのはおかしなことではありませんが、これだけあからさまに「見張り」を受けるのもはじめてなので、正直コワかった。

○久里原(くさとばる)貝塚遺跡 ・・・ マージャ御嶽の近くにあり。本土縄文土器が発見されており、この地に九州縄文人が渡っていたことが確認された。

○念頭平松 ・・・ リュウキュウマツは台風との関係で、横に広がる遺伝的習性があるということで、これは久米島の五枝の松とともに、それの中の傑作。樹齢500年という。

←かなしい伝説があるのです・・・が、忘れた。思い出したら書き足します。

○クマヤガマ ・・・ 天の岩戸伝説あり。アマテラスオオミカミの名も伝えられる。これに基づき、江戸時代、藤井貞幹により神武天皇伊平屋島出身説が唱えられた。

入れるので入ってみて、セヂ(霊力)の高いのにびびった。数時間いたら何か見えてくるかも、なレベル。すばらしい。一晩いたらニンゲンの言葉は二度としゃべることはできなくなりそうであった。ちなみに「クマヤガマ」と呼ばれていますが漢字表記すると「籠屋洞窟」です。「クマヤ」は「籠屋」ですよ。

←右側の階段をずっと昇っていくと入り口があります。かなり狭いけど。

←入口付近から中を覗く。中には・・・(行ってみてのお楽しみ)。とにかく感動しますよ。

○久葉山・・・ 島の北端にある岬。クバの密集地。灯台からなお先の尾根に昇って、あまりの景観のすばらしさに感動した。拝所らしき場所も確認された。

三崎御イベ  神名 アウサキ森  (「琉球国由来記」)

このクバ岬には太古、クバ主とそのオナリ(妹)が降り、小鳥の交尾を見てコドモを作った。その子孫が田名集落を成した、という伝説があるよし。

←クマヤガマからクバ山を望む。向こう側の前方後円墳みたいな巨大な岬が全部クバ。

クバ岬から西側の海岸線を「ウフドー」と呼ぶ。

○潮下浜(すがはま) ・・・ ウフドーにあり。干潮時、イノーの内側に海水湖ができる。すばらしい景観であった。空が晴れていたら、海・空の青美しく、正気を喪ったのではないかと思われるぐらいでした。なお、「菅」「須賀」と書く「スガハマ」「スガシマ」は東海海人族の分布地に多いが「潮下」の意であったかと思いついて驚愕した。

←雨に煙って原始の景観となっていた。

←上写真中央部分にあるとんがり岩を逆側から見てみた。晴れている状態でこの景観みてたら、おいら那覇なんかにはもう帰ってきてない、と思いますよ。自分の名前とかも忘れてしまって

「君は肝冷斎だろう?」

と問われても、

「へへへ・・・」

とうつろな目で笑うだけになっていたかも。

○西籠屋洞窟 ・・・ あまり深くなかった。伝説では奥が深く、東海岸のクマヤガマとつながっているよし。

○無蔵水岩 ・・・ 無蔵(んぞ)は「恋愛パートナーの女の方」の意。貞女新垣マジルがこの岩の上で六年間、恋するおとこを待ち続けた、という伝説の岩である。この岩、四角岩の上に○岩が乗ったような形になっているが、その間隙のあたりから真水が湧き水たまりを成している、というので、その泉を無蔵水というのである。ただし普段は岩に昇れません。祭祀時に岩に昇るための縄らしきもの(←隣の岩との間で「夫婦岩」として〆られていた縄かも知れぬ)が朽ちて散在していた。

←左側のむにゅ、とした方が無蔵水岩。

○ヤヘ岩 ・・・ ここまでウフドー。人造の城遺跡がある、と言われるが違う、とも言われます。とりあえず徒歩で渡るのはムリ。

←渡れないんですよ。ここでサツマと戦ったともいうらしいのですが。

西海岸を南下して、「伊良部岩」(伊良部ノロが漂着したというイノー外の岩礁)を見、左折して東海岸の島尻集落へ。

○観音堂 ・・・ 島尻は海人の村であるそうで、海上安全を観音に禱るのだそうだ。(ほかの村では「龍宮神」に禱る)

○島尻の祝女殿内、神アシアゲ

←島尻の祝女殿内(ぬるどぅんち)←神あしあげ。

○田名神女の馬騎り岩 ・・・ 島尻にノロがいないので、田名のノロが来て祈祷をしていたころの名残という。

○シヌグ毛

○阿波岳 ・・・ この山頂に拝所ありとのこと。女性しか入山できないとされていたよし。「由来記」の

アハ嶽御イベ  神名 寄上森

である。

夕暮近かったが、野甫に行ってみる。今日は下の二か所だけ。野甫三御嶽とかジューマ海岸とか明日行けるかな。

○御産土井戸 ・・・ うふまーがー。産水と死に水をここで採ったとのこと。1452年に作られた、という碑が立っている。ウフマーガーユカユテ ミジクダシムカシ」という神唄が刻まれておった。

○チジ石 ・・・ 伊是名(前地(メーヂ))と連絡をとるための狼煙台であったという。頂あたりに「鏡」が埋め込まれているようなので、誰か礼拝しているのであろう。

ということで、第一日終了。

12日

第二日目。

我喜屋集落の「聖なる道」を歩いてみる。むかし集落のあるあたりは入り江で、集落の北側を腰岳の麓をめぐりながら西の海に通じる道が海岸線であったといい、ちょうど大和の「山の辺の道」のように信仰対象となる施設がこの道沿いにあるのである。

むかし入り江であったという地は今は水田となっており(二期作のよし)、青い稲田を見たので懐かしかった。

○祝女殿内、神アシアゲ

←我喜屋の神アシアゲと祝女殿内。のんびりしておりました。

○真井泉

○八重口 ・・・ 祝女ら身分ある者を葬ったという洞穴墓の跡。今は窟口は閉じているようである。霊威びしびしたるものがあった。

←なんとなく感じますでしょう。中央部に香炉等あり。

神の道 ・・・ 八重口と集落をつなぐ道

○片隈神社 ・・・ 尚巴志の祖父にあたる鮫川の大主=屋蔵大主の墓の場であるといい、屋蔵大主を祀る。建物自体は昭和14年築だが、ここは「琉球国由来記」にいう

カタクマ嶽御イベ  神名 コシアテ森

である。

←片隈神社鳥居。通行止めの腰岳周遊道路はこのあたりに出てくることになるらしい。

○キジムンガマ

○ハイフ ・・・ 東側の海岸一帯を呼ぶ地名だそうである。屋蔵大主の墓であるという「屋蔵墓」あり。戦後すぐに、自らも屋蔵大主の子孫であるという人類学者・八幡一郎先生が調査に来訪し、人骨等を発見しているよし。伊是名島がよく見えた。

←石積みの中に人骨ありたるよし。←こんな海岸。

野甫に行く。

○ジューマ海岸 ・・・ ジューマ島あり。神がここに降りたということで、野甫の発祥の地とのこと。島の海岸にフィーフィーガマあり。キジムナー(野甫でフィーフィーと呼ぶ)が住むという。

○展望台 ・・・ 具志川島、伊是名島がよく見えた。

←伊是名島を望む。

○後ぬ井戸 ・・・ 深い。まだ水があるのでびっくり。

○弁ノ嶽 ・・・ 公園脇の山の神神社。ただし拝殿の裏にまた小祠あり、「由来記」にいう

銘賀瀬嶽御イベ 神名 コシアテ森

であるという。野甫にはあと二つか三つ御嶽があるらしいのですが、今回は断念。

○世界塩の探検館「ソルトクルーズ」 ・・・ こういう私設博物館ダイスキ。おいらもいつか作りたい・・・。(もう人生ののこり足りないか・・・)

午後一時のフェリーで運天港に戻る。すぐに那覇方面に戻るのもさびしいので、やんばる調査を行う。

○スムチナ御嶽 ・・・ 今帰仁村玉城の御嶽で、「由来記」の

コモケナ嶽  神名 コシアテモリノ御イベ

である。やっと探索できた。

←玉城集落の神あさぎと拝所。

○今帰仁城 ・・・ 資料館でいくつか確認。それから城内・大庭(本丸)の二つの御嶽を確認。

城内上之嶽  神名 テンツギノカナヒヤブノ御イベ

 此嶽、阿摩美久(あまみく)、作リ玉フトナリ。詳ニ、中山世鑑ニ見ヘタリ。

←今帰仁城内上之嶽

「上之嶽」をうたったおもろ。(「おもろさうし」829(巻13))

あがるい(東方)の大ぬし       東方を支配する大いなるお方(の力で)、

みやきぜん(今帰仁) かなひやぶ  今帰仁の金比屋武の御イベ(を祀り)、

あぢおそい(按司襲い)す       按司たちを支配する王さまこそが、

かけてふさよわれ            (この島を)支配し栄えたまう。

ちなみに「あがるいの大ぬし」とは太陽のことだとされています。確かに城内上の嶽は東向きなのでそこからやんばるの遥か彼方に昇ってくる太陽が拝めるであろう。

同 下之嶽  神名 ソイツギノイシズ御イベ

←城内下之嶽

○辺戸岬 ・・・ 明日から平日だと思うと涙出てきたのでとにかく遠くへ行きたいー!と辺戸岬まで行って、夕日を見て帰ってきました。ずいぶんウタキ回ったけど、平日の相手は○ゃ○○○だからなあ。明日からどうなるのか・・・。

18日

週末からはじまった頭痛が治りません。クスリ飲んで昼過ぎまで寝ていましたが、あと何日生きているのかとか考えだしたらもうたまらず、追われるようにかんこ・・・いや、フィールドワークにでました。

中城から見ると久高・津堅の二島が「つれのしま」に見える、というのがよくわかりました・・・が、中城・安里の「テラ」を探しに行ったのですが発見できず。また良の浦の海を見たあと、今日生きた価値を見出さねば・・・と知念半島へ。

←いつもステキな良の浦。「おもろ」では、よしのうら、よきのうら、ゆきのうら、などと呼ばれる。

中ぐすく よしのうら         中城の良の浦

よしのうらの めづらしや      良の浦の美しいこと

けよから しばしば みらに     今日からは何度も何度も見れるよ  (「おもろさうし」二の二〇)

刹那的な思考を繰り返した後、安座真城の入口を発見。クスリでぼんやりしたまま登り口を十歩ほど昇った。

そのあたりで、

―――この上はただの場所ではないようじゃ。

と、その先の安座真城(御嶽)の霊威の厳しいのに気づいてぼんやりが覚めました。よく考えるとすでに時刻は1800過ぎ、しかも登り口は断崖に近い斜面で地面は滑るので、「今日はムリだ」と断念して降りかけたところで予想どおり足を滑らせ、滑落。

痛かったがあちこち擦りむいただけで死ななかった模様。肘のあたりに内出血を起こしているのと、腰と首筋が明日はもっと痛くなるかも知れぬが、何とか許されて帰ってきたのである。ひとの覗いてはならぬところを覗こうとする者(フィールドワーカー)にはもろもろのことの起こるもの。今日はこれぐらいで済んでよかった、というところである。辺戸の安須名嶽はもっと厳しいのであろう。

ということで、本日のフィールドワークは失敗

←この上が安座真城のはず。←入口。道標背後の傾斜を見よ。

19日

今日も雨激しく降ったり止んだり。

午前中は那覇市歴史博物館へ。60年代〜70年代の那覇市の広報誌が展示されていたのでぎろぎろ見て帰ってきた。

午後からこちらへ。ひどい雨でした。

午後、沖縄市内で偶然トゥイヌファヌウタキを発見してお詣りした。丘の上の住宅街の真ん中にあり、もともとは森の中であったのだろうが区画整理のときにこの一画に整理されてしまったものであろう。火ぬ神の祠もいっしょにあった。「トゥイ」は「西」の意だそうであるから、「西の端のウタキ」ということであろう。

←トゥイヌファヌウタキ。

夜は北谷アメリカン・ビレッジへ。魚定食食った。雨やっと上がってきた。

21日

ナイショですが、今日は北部に所用で外勤。その帰りに宜野座・松田の洞窟(松田遺跡)をちょっと覗いて帰ってきた。前ノウタキ、後ノウタキの場所も確認。今度調べに来ますよ。

24日

←北谷アメリカン・ビレッジ

ひどい一週間が何とか終わり、北谷モッズで「しおり」さんのライブを鑑賞。しおりさんは首里出身、沖縄インディーズからメジャーデビューして今は東京でがんばっているキーボード弾き語りの人です。東北震災のチャリティーで大活躍してくれているみたい。25歳。この間、うちの会社のPRコーナーにちらっと出てもらっていたので、どんな歌をうたうのだろうかと思うて覗きに行ってみました。

このひとの音楽はおいらにはちょっと合わないみたいですね。ゲストで来てた城間竜太の方はいい感じ。

来週はもっとひどい一週間だぞ。

25日

伊是名島フィールドワーク敢行中。伊平屋よりずっとほんわかした感じの島ですが、ウタキがどこにあるかはわからないー。

首里王府ゆかりの島です。第一尚氏は、その祖・尚巴志の祖父・鮫川親方が伊平屋に移る前に伊是名にいて、難攻不落とされる伊是名城を築いたという。また、第二尚氏は初代の尚円王(金丸)がここの生まれで、姉・叔父・叔母の家系がこちらに残り、首里王府とはずっと近しい間柄であった。このため、王府時代は島尻間切、廃藩置県後も島尻郡に含まれて、「首里直轄」の地であったということである。(写真はいつものとおりじわじわとアップします)

○尚円王みほそ所 ・・・ 尚円王の生地と伝わる所で、みほそ(へその緒)が埋められているという。現在、一帯は「尚円王御庭(うにわ)公園」となっており、王の銅像(高良倉吉先生(現副知事)の考証になる笠を背負い櫂を手にして彼方を指さす像)、産水の潮平井、諸見の拝所が整備されている。

←尚円王の指さしている方向に沖縄本島がある、という作り。

←尚円王像の近くに建つ歌碑。

わが始祖の雄々しきすがたをしのぶとき蒼海のとよみはこころをゆるがす 井伊文子 

なんとなくこれは尚円王を「始祖」と仰ぐひとの歌っぽいぞ。とみなさん気づいたと思います。井伊文子さまは第二尚家二十二世・尚昌さまの長女で、井伊家にオヨメに行った人なのです。伊是名島はいろいろお世話になっているらしい。

←尚円王御庭公園内にある「みほそ所」。へそのをが埋められているという。

←同じ園内にある「諸見のアサギ」。左側にあるのが祝女殿内。なお、伊是名には仲田、諸見(しょみ)、伊是名、勢理客(せりかく)、内花の5集落あり。昭和になって村建てした内花を除き、それぞれに神アサギがあるとのことだが、今回はこの諸見のと勢理客のしか確認できなかった。ちなみに、諸見(しょみ)はみなさんお気づきのとおり、もとは「しおみ」(潮見)であろう。

○伊是名村ふれあい民俗館 ・・・ 写真撮影禁止。貝輪附き人骨(約3000年前)、仲田貝塚出土品(約2500年前)、銘刈家伝世品、などいろいろオモシロいものが。農機具はいつものとおり全国共通。

○アハラ御嶽 ・・・ アカラ嶽御イベ、神名:スゞノ森。

島の至聖所なりという。往古、島の東側にある降神島(おりかみしま)に夜明け前に神が降りられ、夜明けにこのアハラ(明けはれ)の岩山の頂にお移りになられたのだそうで、その神はアマテラスオオミカミである、とも伝わる。(ちゃんと看板があるから昇って行ったんです。入ってはいけない、とは書いてなかったから入ってもよかったんだと思うのですが・・・)

←アハラ御嶽。こんな岩がごろごろしている。

←アハラ御嶽頂上から南方を見る。こちら側が陸(あぎ)ギタラ、向こう側が海ギタラ。現在は無人の屋那覇島を隔てて、はるかに伊江島がある。

○銘刈家住宅 ・・・ 尚円王の叔父の家系が住んだ住宅で、伊是名夫地頭の家であった。多くの古文書も残るよし。ここの一部、すごいコワいものが・・・。に、に、に、にんぎぎぎぎぎぎぎぎ・・・・・。

←銘刈家住宅。この左手の棟の奥の方に銘刈家の仏壇・香炉があるが、そこはちゃんと祭られていて別にコワいわけではないのですが、向かって奥の離れのような棟に、どういう意味なのか二体のすごいにんぎぎぎぎぎぎぎぎぎぎぎぎぎ・・・・・・・・

(肝冷斎二号に交代します)

肝冷斎一号は何か恐ろしいものを見たのでしょう、白髪となり正気を喪ってしまいましたので、以下、おいら二号に交代。

○二見が浦海岸 ・・・ 「ふたみ(がうら)」の名は、伊勢二見のほか筑後糸島、羽後酒田にもある地名ですが、沖縄にも名護の二見とこの伊是名二見が確認されます。夫婦岩(陰陽一揃いの立神岩)のある風光明媚な海岸線をいう海人族の地名なのでしょう。

ここは「日本の渚100選」にも選ばれているそうで、また、陸ぎたら(アギギタラ)、海ぎたらと称する並列岩もある。(「ぎたら」は「切り立ったモノ」の意)

←二見が浦を望む。右手からアカラ御嶽、陸ギタラ、海ギタラ。なお、この背後にも浦が広がり、次項の伊是名城が見られるのである。

○伊是名城(いぜなぐすく) ・・・ 鮫川親方が作ったということだが、ピラミッド型の山の中腹に石垣があるのがそれであるという。登り道があるのでついつい昇って行ったら、そちらには昇らずに海側に回り込んで・・・聖所が・・・水・・・蝶・・・そして・・・(詳細は「琉球国由来記」巻十六(38)「泉井」(90)「雨乞ノ事」参照。)

(肝冷斎三号に交代します)

聖なる空間に入り込んでしまったのでしょう、肝冷斎二号の心は動かなくなってしまい、何を問いかけてもにこにこと笑いながら虚空を見ているばかり。なので、以下、おいら三号に交代。

○伊是名玉御殿 ・・・ 伊是名城の麓にある石室墓。尚円王のおやじ・おふくろなど、第二尚家ゆかりの方々の墓所。調査の際、大量の人骨出たよし。

○サムレー道 ・・・ 伊是名城の麓に元島(古い集落)があって、それと銘刈家などがある伊是名集落を結ぶ古道である。サムレー(士族)が歩いた、のではなく、道に敷いた石がサムレーの足跡のような形になった、というのでこの名がついたよし。銘刈カーなどあり。ウシガエルの声聞こえ驚いた。ちなみに今は「元島」は無し。すでに森に埋もれている。

○仲里節歌碑

○チヂン岳展望所 ・・・ 「地神」岳の意だそうです。

○美織所(ちゅらいんじょ) ・・・ 伊江島のみやらび(美童。美しい乙女の意。ボーイズラブではありませんので念のため)、仲村渠嘉真戸(なかんだり・かまと)が伊是名の美青年・松金を慕うてこの島に来て、二人が偲び会うたところであるという。後、マカトがここに住んで美しい布を織ったので「美織所」というのだそうだ。

○勢理客のアシャゲ、土帝君祠

○逆田(さかた) ・・・ 尚円王が若いころ、村人から迫害されて水の便の悪い山中の田をあてがわれた。旱害のとき、下の田の主たちが尚円王の田に水をやるまいと畔を切ったが翌朝見てみると、畔を切られた尚円王の田には水があり、下の田には水が無かったので、「水が逆さに流れた」といって「逆田」という名がついたという。尚円王がいけめんだったので村の女たちが水を運んでやったのだ、という伝説もある。でも、肝冷斎は、おそらく「逆田」ではなく、地形名称の「迫田」(さこた)だと思いますよ。

○屋部の土帝君祠

なお、島では夜のドライブは止めましょう。闇の中を走っている最中に後部座席でいろいろと音が・・・

26日

フィールドワーク第二日。

○風の岩 ・・・ こわかったけど、登った。みなさんも一度は昇ってみるといいよ。

←あの山の頂上部が「風の岩」といわれる場所らしい。行ってみるよー!

←ここから登れ、と書いてある。危険な場所もあるので「自己責任で」とのこと。

←頂上の岩場に到着。拝所あり。三百六十度見渡せるが、風が強い。

←ちょびっと降りたところに、ケモノが口を開いたような「風の岩」が。この隙間に入れるようだ。

←どんどん奥の方に入ってみた。島の西側が見える。

○伊瀬名湊 ・・・ 伊是名集落にあり。大正期までは仲田港ではなくこちらが本来の港であったよし。今は伊是名漁港の一部として遺されている。湊に隣接して観音堂あり。

←観音堂。

そのほか、昨日歩けなかったサムレー道の残りなどをほっつき歩いて帰ってきた。とにかくコメが美味いので、また行きますよ。ぶう。

・・・・・・・・・・・・・

○オランダ墓 ・・・ 運天原にあり。ちょうど運天港のバースの対岸になる。1830年代に来たフランス船の乗り組み員二人の墓であるが、当時外国人はすべて「ウランダー」と呼んでおったため、「オランダ墓」と称されるようになった。蝶が多い。

←オランダ墓。見づらいですが中央部やや下あたりに四角い石標が二つ並んでいる。

名護・東海岸へ

○汀間の拝所、大御嶽 ・・・ 神威びしびしたるあり。小湊嶽 神名:ソノモリノ御イベ

←かっこいい。

○瀬嵩の宮、浜 ・・・ すばらしかった。大湊嶽 神名:コガネモリノ御イベ であろう。

←この左手に海に突き出した「御崎」あり。その小山自体が嶽であろう。

 

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