平成22年2月7日(日)  目次へ  前回に戻る

今日は海が見たくなって海辺に行きました。

冬は空が澄んで雲が少ない。

蒼々と深い青空が広がり、雲は向こう岸の房総の山なみに近いところを掠めているばかりだ。

春雲宜山、夏雲宜樹、秋雲宜水、冬雲宜野。

春雲は山に宜(よろ)しく、夏雲は樹に宜しく、秋雲は水に宜しく、冬雲は野に宜し。

春の雲は山にかかっているのにふさわしく、

夏の雲は木々の向こうにあるのにふさわしく、

秋の雲は水に映っているのにふさわしく、

冬の雲は原野のかなたにあるのにふさわしい。

といわれるのもムベなるかな。

そして、いずれの季節においても、雲なるものは、

着眼総是浮遊、観化頗領幻趣。

着眼すべてこれ浮遊、観化すこぶる幻趣を領す。

ちょっと見にはまず、すべてふらふらと流れゆくものの象徴、

じっと見ているとやがて、夢幻のように変化していくものの似姿。

というのである。

ところで、わたくし、長い間、

―――ああ、もったいない。わしのモノはすべてわしのモノだ。他のひとには絶対に与えるものか。

と思っておりましたのですが、白い雲を見ていたらもうなんだかどうでもよくなってきた。

鄙吝一銷、白雲亦可贈客。

鄙吝一たび銷(と)くれば、白雲もまた客に贈るべし。

けちくさい気持ちが溶けていくと、白い雲もまた惜しまずにひとさまに贈ることができよう。

むかし、梁の時代、山中に暮らす隠者・陶弘景は、皇帝から

「山中にはどんないいものがあって、おまえは都に出てこようとしないのじゃ」

と問われて、

山中何所有。  山中には何の有るところぞ。

嶺上多白雲、  嶺上に白雲多きも、

只可自怡悦、  ただ自ら怡悦すべく、

不堪持贈君。  持して君に贈るに堪えず。

 あなたは訊く、山の中には何があるのかと。

 峰の上に限り無く湧き、過ぎて行く白雲がある。

 けれどそれはわたしだけのよろこび、

 あなたに差し上げてもあなたは戸惑うだけだろう。

白雲に象徴される山中の歓びは、世俗の富貴とは無縁のことであることを言うた詩である。→関連

それがさらにひっくり返る。価値から自由になると白雲もたいへん貴重なものとなり、さらにはその貴重なものさえ他人様に差し上げてもいいや、という心になってくるのです。

それから船に乗って帰路に着いた。

夜半、雲が過ぎて行ったあとの星空を観ていたら、自分の中の汚いものがどんどん溶けて無くなってまいりました。

渣滓尽化、明月自来照人。

渣滓(さし)ことごとく化し、明月は自ずから来たりて人を照らす。

わしの中のごみ・かすはことごとく融解し、空っぽの心の中のわしのところへ、明月は自分からやってきてしらじらと照らす。

キレイな心になったのです。

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明・小窗先生・呉従先「小窗自紀」第28則及び第7則より。

今日は海芝浦やヨコハマで海を見た。雲も見た。落日や富士山を見た。おかげさまでせっかくキレイになった・・・かと思ったのに、明日からまた「おもて」の仕事である。そのことを思ったら、またどろどろしたものが心を覆いはじめたのだった。

←首都圏三大秘境駅の一とされる海芝浦駅に到着す。

←海芝浦駅からハマの海を見たのさ。

←これは大桟橋から観たる富士山。

 

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