平成25年4月28日(日)  目次へ  前回に戻る

 

お東京から帰ってまいりました。そういえば今日は「屈辱の日」でしたね。

沖縄と本土との関係はいろいろあるのでございます。こんな↓事件も・・・。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

むかしむかしのことでございます。

聞得大君加那志帯侍女数十、坐駕海船、赴久高島以行祭祀。

聞得大君加那志(きこえおおぎみがなし)、侍女数十を帯して、海船に坐駕して久高島(くだかじま)に赴きて以て祭祀を行わんとす。

きこえおおぎみさま(名高く大いなる君(女神官)の意。「がなし」は尊称)が、侍女数十人を連れて、船にお乗りになって祭祀のため聖地・久高島に御向かいになられたときのことである。

海中において逆風に遭い、船は漂流してしまった。

そして、

已経歳月杳然無跡。

すでに歳月を経るも杳然として跡無し。

何年も過ぎたが、どこに行ってしまったのか、手がかりも無かった。

この間、琉球国では旱魃が続き、五穀は実らず、人民は困苦の極みに陥ったのである。

「なんとかしてくださりませい」

という人民たちの哀願を受けて、王府におかれては

招集諸覡巫輩、頻頻問之。

諸ろの覡巫(げきふ)の輩を招集し、頻々としてこれに問う。

諸方の君(きみ。高級女神官)、祝女(のろ。地方女神官)、覡者(ゆた。民間祭祀者)らを集め、どうすればよいか何度もお問い合わせになった。

彼女らはその意見を合わせて申し上げるには、

想是聞得大君加那志為風所漂、滞在他国之故也。

想うにこれ、聞得大君加那志の風に漂わさるところと為りて他国に滞在するの故ならん。

思うに、このような事態になったのは、先年、きこえおおぎみさまが風に流されてどこかの国に行ってしまわれたので、そのせいでございましょう。

と。

しかし聞得大君はどこにいるのか。

それはわかりません。

う〜ん。

みんな悩んでおりました。

すると、

一日、有君摩物神曰。

一日、君摩物神の曰うあり。

ある日、神女の一人に、「きみまもん」の神が御降りになり、御託宣をくだされたのである!

(と訳してみましたが、沖縄神道的には「(神女の一人が)きみまもんの神(そのものになって、その神)がおっしゃった」という感覚です。神が憑いた神女はその時点でほんものの神になる。まさに現人神です。)

「きみまもん」は「真物の君」の意で、「ほんまもんの女神さま」ぐらいの感じ。国王の代替わりなど重大な事件の時に現れるといわれる。

「きみまもん」さまはおっしゃった。

今大君加那志逗在日本。汝等須早撥船往至日本以為仰回于是。

今、大君がなしは日本に逗在してあり。汝ら、すべからく早く船を撥して往きて日本に至り、以てここに仰回を為せ。

「いま、きこえおおぎみさまは日本本土におるぞよ。なむぢら、はやく船を出して日本本土に至り、この地にお戻りいただくがよいぞ」

そうか、日本本土に漂流されたのか。

だが、誰が本土まで船を出して迎えに行けばいいのか。

このとき、佐敷を所管する場天祝女(ばてんのろ)が

「わらわにお任せあれ」

と名乗り出、大城祝女(うふぐすくのろ)を船筑(航海士)として、女どもばかり数十人にて大海原に乗り出したのであった。

船は順風を得て数日にして日本本土のある場所に到着した。

その地にて数十人の女ども手分けして聞きこんでみるに、そこより程遠からぬところに、数年前、身分高い美しい女性が漂着し、その地の領主にねんごろにもてなされているということであった。

この女性こそ聞得大君さまであったのである。

ついに場天祝女は大君さまにお目通りし、

跪于御前、曰、妾等特来此地迎接、大君加那志也願早還故郷焉。

御前に跪きて曰く、妾等特にこの地に来りて迎接す、大君がなしや願わくば早く故郷に還らんことを。

その前でひざまずいて申し上げるに、「わらわたちがこの地まで特にまいりましてお迎えに来たのでございます、どうぞ大君さま、すみやかに故郷の沖縄にお戻りくださいませ」と。

大君は考えるところがあるふうであったが、沖縄の状況を聞き、どうしても自分が帰らなければならないことを知って、帰郷に同意し、ともに場天浜に戻ってきたのであった。

場天祝女の父であり佐敷の海浜を支配する沙明嘉(さめか。さめかわ按司→参照鮫川大主」)が海辺まで出迎え、酒杯を献上して喜びを申し上げたのであった。

かくして沖縄の風雨はもとに戻り、五穀は大いに実ってひとびと豊かに暮らせるようになったが、

大君加那志不欲帰本処、但於大里郡与那原村結構宮舎而住居焉。後薨于此、即収其霊骨、埋葬三津嶽、人尊信為神。

大君がなし、本処に帰るを欲せず、ただ大里郡与那原村に宮舎を結構して住居せり。後、ここに薨じ、即ちその霊骨を収めて三津嶽に埋葬し、人びと尊信して神と為せり。

大君さまは思うところあられて元の場所(首里の王城)にはお戻りになられず、ただ首里の東側の海港である大里郡の与那原村に宮殿をお作りになってここにお住まいになられた。後にここでお亡くなりになられたので、その霊力ある遺骨は与那原の「みつむ御嶽」に埋葬申し上げた。地元のひとびとは尊び信仰することひとかたならず、今も神として祀っているのである。

聞得大君が「思うところあられた」のは本土に御滞在の間に懐妊なさっていたから、(沖縄の神女は未婚であることは必要ないのであるが、父親に問題があったのか)さすがに差し控える必要があって元のところ(首里王城)にはお戻りにならなかったのだ、ということである。

ちなみに場天ノロ、この時日本近海から「多志好」(たじよく)という魚を連れて来て、沖縄近海に浮かべましたので、今では沖縄でもこの魚が捕れるということじゃ。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

「遺老説伝」巻三より。

事実ならこれは風で漂着したのではなくて、倭寇のしわざでしょうなあ。この時期は前期倭寇か。

だいたいにおいて、聞得大君制度を創めた佐敷按司(後の尚氏=名和氏?)自体が倭寇だ、と折口信夫大先生が喝破しておられるし。また、「三津嶽」(みつむうたき)は「由来記」では「友盛(とももり)の嶽おいべ」といっている。「友盛」は明白に平氏系の人名であろう。

この聞得大君漂流(して本土のやつにヤラれた)説話は沖縄では三尺の童子もこれを知っている(←うそ。コドモでは知らんやつの方が多いと思いますよ)。本土のやつは六尺ぐらいあってもほとんど知らないであろう。このあたりに認識の落差が生じるのでありましょうから、もっとよく沖縄のことを知らねばなりませんね。肝冷斎に教えを乞うたりして。

 

表紙へ  次へ