令和2年7月13日(月)  目次へ  前回に戻る

アバサーボールなんか飛んできたら、戦意を失いますよね。

自分で考えるのはイヤであるが、人の注釈を引用すれば楽ちんである。

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将有五危。

将に五危有り。

将軍には五つの危険な状況があるんじゃ。

こういう状況にある敵将は、やっつけやすいのじゃ。うっしっし。

どういう状況でしょうか。

@  必死、可殺也。

死を必せるは、殺すべきなり。

もはや必ず死ぬであろうと思っている敵将は、殺すことができるんじゃ。

どうやって殺すのであろうか。

勇而無慮、必欲死闘、不可曲撓、可以奇伏中之。

勇にして慮る無く、必ず死闘を欲するは、曲撓すべからざれば、奇伏を以てこれに中るべし。

勇気はあるがはかりごとが無く、必ず死のうとして戦ってくる者は、変化したり止まったりすることができないから、思いがけぬところに伏兵を仕掛けておけば、どかんと大当たりじゃ。

と、これは魏武侯・曹操の注である。

A 必生、可虜也。

生を必せるは、虜(とりこ)にすべきなり。

なんとか生き残ろうとしている敵将は、捕虜にすることができる。

どうやって捕虜にするのであろうか。

晋の終わりごろ、劉裕が長江を遡って桓玄を攻めたとき、劉裕側は数千人しかおらず、桓玄側は数万の兵を擁していた。ところが、

玄懼有敗衂、常漾軽舸於舫側、故其衆莫有闘心。

玄、敗衂(はいじく)あるを懼れ、常に軽舸を舫側に漾(ただ)よわせ、故にその衆に闘心有るなし。

桓玄は敗北して殺されるのを恐れて、いつも自分の乗船の側に(逃げ足の速い)小舟を浮かべていた。将兵らはそのことを知っていたので、そもそも戦意を失っていたのだ。

劉裕の軍は、

乗風縦火、尽鋭争先、玄衆是以大敗也。

風に乗じ火を縦いままにし、鋭を尽して先を争い、玄の衆はここを以て大敗せり。

追い風に乗じて火計を使い、精鋭を投入して先鋒を争った。桓玄の軍は(戦意もなく)このために大敗したのである。

これは唐の杜牧の注である。詩人として名高い杜牧ですよ。

B  忿速、可侮也。

忿速なるは、侮らすれば可なり。

怒りっぽくて気が早い敵将は、侮らせてやればよい。

どうしてそうなるかというと、

急疾之人、性剛而可侮致也。太宗殺宋老生而平霍邑。

急疾の人は、性剛にして侮りて致すべきなり。太宗、宋老生を殺して霍邑を平らげり。

気の早いひとは、性格が剛直だから、こちらを侮らせれば、その行動が予測できるので処理することができる。太宗皇帝・李世民が、宋老生を殺して霍邑を平定したときがこの方法であった。

「(相手に)侮らせれば(こちらの策にはまってくるから)いい」という解釈と「(ことらが)侮ったふりをしてやれば(相手はこちらの策にはまってくるから)いい」という二つの解釈がありますが、ここは唐の李筌(り・せん)の注によって前者で解釈しました。李筌は杜牧より先輩で、唐の開元・天宝のころのひとというから、杜甫や李白と同じ時代のひとです。

C  廉潔、可辱也。

廉潔なるは、辱しむれば可なり。

高潔で清廉な敵将は、屈辱を与えてやればいい。

どうしてそうなるかというと、

清潔愛民之士、可垢辱以撓之、必可致也。

清潔にして民を愛するの士は、垢辱すれば以てこれを撓むべく、必ず致すべきなり。

高潔で清廉で、人民を愛する(ような道徳的にすぐれた)立派なひとは、これを汚し辱かしめるような言説を流してやれば、心が折れてしまい、必ずこちらの策にはまってくる。

これは、南宋の張預の注。簡潔で倫理性を重んじるところに特徴があるといわれます。

なお、杜牧注は、ここで諸葛孔明が司馬仲達をおびき出すために女性用の服を贈って臆病であるのを揶揄した故事を挙げています。仲達は怒って攻め込もうとしたのですが、そこへ曹操の使者の辛毗が来て、思いとどまらせたのだそうで、

仲達之才、猶不勝其忿、況常才之人乎。

仲達の才にしてなおその忿りに勝(た)えず、いわんや常才の人をや。

司馬仲達ほどの才能があって、それでも怒りにがまんできなくなったのである。ふつうの才能の人であればどうなってしまうであろうか。

ふつうの才能だけど「自分はすごい才能だ」と思っている人はやられると思います。ふつうの才能で「自分はふつうの才能だからなあ」と思っているひとは案外無事かも。そんなひとは将軍なんかしてないか。

D  愛民、可煩也。

民を愛するは、煩わせば可なり。

人民を大切にするような相手は、煩わしくさせてやればいい。

どういうふうにするかというと、

以奇兵若将攻城邑者、彼愛民、必数救、則煩労也。

奇兵・若将を以て城邑を攻むれば、彼は民を愛し必ずしばしば救い、すなわち煩労するなり。

(本隊は動かないまま)遊撃隊や下級将校を派遣して人民の住む町や村を攻撃させれば、相手は人民を大切にするので必ず何度も助けに行くであろうから、その軍は煩い疲労する(。そこを攻撃すればいい)。

これは北宋の王皙(おう・せき)の注です。

凡此五者、将之過也、用兵之災也。覆軍殺将、必以五危、不可不察也。

およそこの五者は将の過ちなり、用兵の災いなり。軍を覆し将を殺すは、必ず五危を以てすれば、察せざるべからざるなり。

だいたいにおいて、この五つのことは、将軍としては過った行動であり、兵を用いるに当たっては禍いというべきことなのじゃ。軍が全滅したり将軍が戦死したり(という大敗を喫)するのは、必ずこの五つの危険のどれかが原因となっているのである。よく考えておかねばなりませんぞ。

うっしっし。

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「孫子」巻八「九変篇」より。将軍が清廉高潔であったり、人民を大切にしたり、というのも用兵においては災いなのである。よく考察しなければなりませんね。

それにしても十一人の注を集めた「十一家注孫子」は便利だなあ。あと本朝の荻生徂徠と吉田松陰の注を参照するともっと賢くなれそうですが。なお、「孫子」本文自体はかつてご紹介したことがあります。

 

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