令和2年6月7日(日)  目次へ  前回に戻る

なんで怒られるのかわからないことで怒られるのもツラいが、怒られるとわかっていて怒られると自己嫌悪も強く、一段とツラいものである。

休日すばらしかった。しかしまたまた明日から平日。しかも今週は苦しい(と思われる)ぞ。

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「休日のすばらしいのを平日のイヤなのに回せば、毎日おんなじように少しイヤなぐらいに均して暮らせるのではないか」

と思うひとがいるかも知れませんが、そうもいかず、

人間世自有参差不能如一者、自是正理。

人間世に自ずから参差の一なるごとき能わざるは、自ずからこれ正理なり。

ニンゲンの暮らす世界に、不揃いがあって均一に割り切れないのは、それが自然の正しい仕組みだからなのである。

休日と平日が不ぞろい、なんていうレベルの問題ではないんです。

如周天有三百六十五度四分度之一。

周天三百六十五度四分度の一有るが如し。

宇宙の経度は、三百六十五度プラス四分の一度ある、というのもそうである。

ゲンダイの数学では「円は360度」と習いますが、このひとたちの天の一度は一日に天が動く度数、なので、一周は一年の日数と同じになる、という考え方なんです。

夫三百六十度可矣、而必加之五。又加之以四分度之一。

それ、三百六十度にて可なり。しかるに必ずこれに五を加う、またこれに四分度の一を加うなり。

まったく、三百六十度ちょうどだったらいいのに、毎年毎年五度が加わっていく。さらに4分の1度づつ加わっていく。

西洋暦では400年に97回うるう年(366日)を置くらしいんで、正確な近似値は(360+5+400分の97)≒365.2425度になるらしいです。

一歳十二月、二十四気、三百六十日、宜無余欠矣。

一歳十二月、二十四気、三百六十日なれば、余欠無かるべし。

一年が30日✖12か月で、15日づつの節季が24あって、360日になるなら、あまりも不足も無いはずなんです。

然気則盈而朔則虚、故律之数必有空積忽微、玄之数亦有奇零仮借。

然るに気すなわち盈つるも朔すなわち虚しく、故に律の数に必ず空積・忽微有り、玄の数もまた奇零仮借有り。

ところが、毎月気が満ちていっても(また欠けていき)、月の朔日には空っぽになるわけですが、ここまでが三十日にきっかりではない。それゆえ、二十四節季に応じた「音階」を考える楽律の学問(←そういうのがあるんです)には、必ず「ほぼ無い、という量」とか「ほんの僅か」という概念が出てくるし、宇宙の秘密を解析しようという玄学(←そういうのもあるんです)にも、「特別な無」とか「仮定の数」などというものが存在するのである。

「律学」は季節ごとに天地の在り方に正しく対応した音楽を見出そうという儒学の一分野であり、「玄学」は老荘思想に淵源を持つ数秘術の一種ですが、あんまりマジメに考えてはいけません。なお、小数点以下の数値を表わすときに「忽」(こつ)は10万分の一、「微」は100万分の一に使われます。100万回打って15安打する打者がいれば、その打率は「0割0分0厘0毛1忽5微」になります。

なんにしろ、

是天地造化猶不能無有余不足、而況於人乎。

これ天地造化もなお余不足有ること無き能わず、いわんや人においてをや。

こういうふうに、天や地や宇宙生成においても、あまりと不足が必ずつきまとうのである。ニンゲン世界が割り切れないのは、言うまでもないことであろう。

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明・張萱「疑耀」巻二より。ニンゲン世界が割り切れないのはしようがないが、怒られなければいいのですが・・・。

 

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