令和2年2月5日(水)  目次へ  前回に戻る

いつも寝ていて、ハタラクのは夢の中だけ・・・そういうものになりつつある。

なんにもしたくないんですが、それだけでなく今日はほんとになんにもしませんでした。こんなにサボってたら、大人だったら怒られちゃいますね。

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一生慵懶作。 一生、慵懶(しょうらん)作(さ)す。

 生まれてからずっと、めんどくさくて何もしたくない。

おお、これは肝冷斎一族のテーマソングです。

憎重祇便軽。 重きを憎みてただ軽きを便とす。

 重大なことをするのがイヤで、軽薄なことがいいと思ってばかりいる。

怪しからん一族だなあ。

侘家学事業、 侘家(たけ)は事業を学ぶに、

余持一巻経。 余は持す、一巻経のみ。

 他の人たちは勉強して何事かを成し遂げていくのに、

 おいらは一巻のお経を持ち歩いているだけさ。

そのお経も、

無心装褾軸  褾軸を装うに心無く、

来去省人ー。 来去して人のー(ささ)ぐるを省みる。

「褾」は「表装」のことです。

表装や巻軸を整えるといったキモチはさらさらなく、

(自分は)行ったり来たりして(自由に振る舞いながら)、誰かが掲げてくれるのを振りむく程度。 

「お経」は仏法の教えに基づく「断捨離」な生き方の比喩なのでしょうが、それにさえこだわることの無い自由な境涯なのである。

自分について、だけでなく、世の中に対しても自由に振る舞うので、

応病則説薬、 病に応じてすなわち薬を説くべく、

方便度衆生。 方便にて衆生(しゅじょう)を度す。

 病気に対応してどんなクスリがいいか説明するように、

 うそも方便、そのひとに応じた方法で、ひとびとを救済してやろう。

とは思うんですが、そんなことにもこだわる必要はない。

但自心無事、 ただ自心のみ無事なれば、

何処不惺惺。 何れの処か、惺惺(せいせい)ならざらん。

「惺」は「醒めている状態」。覚り悟り、明らめ諦めた様子です。

 とにかく、自分の心に何のわだかまりも無ければ、

 どこにいたって、目ざめていられる。

ということで、肝冷斎一族は「どこにいたっていいや」と散り散りバラバラになり、今やその行方を知る者さえいないのである。

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「寒山詩」より。今日は何もしなくてシアワセでしたが、明日はシゴトのイヤなのがあるんです。ああ心がわだかまるなあ。

 

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