平成31年2月6日(水)  目次へ  前回に戻る

ぶたキング曰く「ウインナーはタコであるのが望ましいが、必ずタコウインナーでなければ食べない、というのでは、ウインナーを食べ逃がしてしまうであろう」と。

もうだいぶん暖かくなってきたのかなあ、と思って冬眠中の洞穴から這い出してみたら、雨が降って寒かったのはともかく、まだ水曜日だったとは。すぐに洞穴の中に戻って、またぬくぬくと眠ることにします。

・・・・・・・・・・・・・・

腹が減った時はなんでもいいから食べたいですよね。

なのに、

百日不食、以待梁肉、餓者不活。

百日食らわず、以て梁肉を待てば、餓者活(い)きず。

百日の間何も食べないでいるのに、穀物と肉の御馳走でなければ食べない、とうのでは、飢えた者が生き残れるはずないであろう。

そのとおりだと思うのですが、これに対し、

良馬固車、臧獲御之則為人笑。王良御之則日取乎千里。

良馬固車も、臧獲(ぞうかく)これを御せばすなわち人の笑いと為る。王良これを御せば日に千里を取らん。

「臧獲」(ぞうかく)は奴隷を示す「臣」に「傷つける、手荒く扱う」の意の「戕」(しょう)をつけた文字で「ダメ奴隷」という意味になります。ただし、時代が下ると、そういうやつは扱いやすいので、仮借して「良い」の意味に使います。「獲」は狩りの獲物、分捕り品ですが、「臧獲」と熟すと、「臧」が男奴隷、「獲」が女奴隷、二人合わせて「ダメ奴隷」の意味です。奴婢の中でも「使えないやつ」のことだ、と思ってください。

「王良」は古えの伝説的な名御者。

いい馬としっかりした馬車があっても、その御者が田吾作みたいな奴婢であれば、ひとびとは笑うであろう。しかし、御者が王良なら、一日に千里を走ることもできるだろう。

だから、王良が現れるのを待つべきだ、というひとがいます。

しかしながら、

吾不以爲然。

吾は以て然りと為さず。

わたしはその考え方には反対ですね。

御者に王良が来てくれるのを待つ、というのは、

待越人之善海游者、以救中国之溺人。越人善游而溺者不済。

越人の善く海に游(およ)ぐ者を待ちて、以て中国の溺人を救わんとす。越人は善く游げども、溺者は済(すく)われず。

遠い南の越の国のひとびとは、海で泳ぐのが得意であるという。そこで、中原で今溺れているひとを助けるために、越のひとを呼ぶことにしではどうだろうか。確かに越の国のひとは泳ぎが得意であろうが、そのひとの到着を待っていたら、中原で溺れているひとが救助できるはずがない。

のでございます。

これによりまして、

無慶賞之勧、刑罰之威、釈勢委法、堯舜戸説、而人弁之不能治三家。夫勢之足用亦明矣。而曰必待賢、則亦不然矣。

慶賞の勧(すす)め、刑罰の威無く、勢を釈(お)きて法に委ねれば、堯・舜の戸ごとに説き、而して人これを弁(わきま)うといえども、三家をも治むるあたわざらん。かの勢の用うるに足ること、また明らかなり。而して「必ず賢を待つ」と曰うは、すなわちまた然らざらん。

賞与を与えて勧めたり、刑罰を以て脅かしたりせず、強制力(←「勢」をとりあえずこう訳してみます)を使わずに「決まり」だけは布告したとしますと、堯や舜のような聖人が家ごとに出かけて説得し、相手も理解したとしても(、時間と労力がかかりすぎて)、三軒ぐらいに納得させるのが限界で、それ以上のひとびとを統治するのはムリであろう。

ということから、強制力が役に立つ、ということはみなさんおわかりいただけると思います。

しかし、強制力を使うことにしたうえで、さらに堯や舜のような賢者が現れてから政治をさせよう、というのでは、(そういう賢者はなかなかいないので)うまくいかないであろう。

ということがわかります。強制力と法規があれば、中ぐらいのひとでも円滑な統治ができるので、中ぐらいのひとにやらせればいいのだ、ということが証明されたのである。法家思想はすばらしいなあ。

・・・・・・・・・・・

「韓非子」巻十七・難勢篇より。腹が減っているときに穀物と肉の御馳走など待つ必要はないのである。

 

次へ