平成31年2月5日(火)  目次へ  前回に戻る

新年(旧暦)の記念に天津飯(大)を食べるぶたとのだ。めでたいのはぶたとのの頭の中で、めでたくないことも多い。

旧正月です。だからといって洞穴の中は関係ない。

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正月(旧暦)早々、ためになる話をいたしましょう。

盗子問於郁離子。

盗子、郁離子に問う。

盗人先生が、郁離先生に質問した。

天道好善而悪悪、然乎。

天道善を好みて悪を悪(にく)む、然るや。

「おてんとうさまは善に味方し、悪に敵対する、というが、本当ですかな?」

郁離先生答えて曰く、

然。

然り。

「そのとおり」

「ほほう。それでは・・・

天下之生善者宜多而悪者少矣。

天下の生、善者多くして悪者少なかるべきなり。

世界の生物は、善の生き物が多くて悪の生き物が少ない、となるべきですな」

「・・・・・・・」

「ところが、

今天下之飛者、烏鳶多而鳳凰少。豈鳳凰悪而烏鳶善乎。

今、天下の飛ぶ者、烏鳶多くして鳳凰少なし。あに鳳凰悪にして烏鳶善ならんや。

現状を見てみると、世界中の空飛ぶものは、カラスやトビはよく見かけますが、鳳凰はまず見たことがありません。まさか、鳳凰が悪で、カラスやトビが善だ、というわけではございますまい。

天下之走者、豺狼多而麒麟少。豈麒麟悪而豺狼善乎。

天下の走る者、豺狼多くして麒麟少なし。あに麒麟悪にして豺狼善ならんや。

世界中の地上を駆けるもの(四足ドウブツ)は、やまいぬやオオカミはよく見かけますが、麒麟はまず見たことがありません。まさか、麒麟が悪で、やまいぬやオオカミが善だ、というわけではございますまい。

天下之植者、荊棘多而稲梁少。豈稲梁悪而荊棘善乎。

天下の植さるる者、荊棘多くして稲梁少なし。あに稲梁悪にして荊棘善ならんや。

世界中の植物は、トゲのある草やトゲのある木はよく見かけますが、食物になるイネや高粱はあまり見かけません。まさか、食物になるイネや高粱が悪で、トゲのある草やトゲのある木が善だ、というわけではございますまい。

天下之火食而竪立者、姦宄多而仁義少。豈仁義悪而姦宄善乎。

天下の火食して竪立する者、姦宄(かんき)多くして仁義少なし。あに仁義悪にして姦宄善ならんや。

世界中の料理に火を使い直立して移動する者(すなわち文明人)は、邪悪でよこしまなやつはよく見かけますが、仁義のひとはあまり見かけません。まさか、仁義のひとが悪で、邪悪でよこしまなやつが善だ、というわけではございますまい。

でしょう?」

「・・・・・・・・」

将人之所謂悪者、天以爲善乎。人所謂善者、天以爲悪乎。 ・・・※

はた、人のいわゆる悪なる者は、天以て善と為すか。人のいわゆる善なる者は、天以て悪と為すか。

もしかしたら、ニンゲンのいうところの悪を、天は善と考えるのだろうか。ニンゲンのいうところの善を、天は悪と考えるのだろうか。

抑天不能制物之命、而聴従其自善悪乎。 ・・・※※

そもそも天は物の命を制するあたわず、その自(おのず)から善悪するを聴(ゆる)し従うか。

実は天は生き物の運命を決めることができず、かれらが勝手に善をしたり悪をしたりするのを放任しているのだろうか。

将善者可欺、悪者可畏、而天亦有所吐茹乎。

はた、善者は欺くべく、悪者は畏るるべく、天もまた吐茹するところ有るか。

もしかしたら、善なる者は誤魔化すことができるが、悪なる者はコワいので、天もまた忖度するところがあるのだろうか。

だいたいですよ、

自古至今、乱日常多而治日常少、君子与小人争則小人之勝常多而君子之勝常少。

いにしえより今に至るまで、乱日常に多くして治日常に少なく、君子と小人爭えばすなわち小人の勝ち常に多くして君子の勝ち常に少なし。

古代から現代まで、乱れた時代がいつも多く、治まった時代はいつも少ないではないか。あんたがた立派なひととわたしども下らぬやつが争えば、いつも下らぬやつの方が勝って、立派なひとが勝つことは滅多にありはしないではないか。

さて、

何天道之好善悪悪而若是戻乎。

何ぞ天道の善を好み悪を悪むこと、かくのごとく戻(もと)れるか。

おてんとうさまは善に味方し悪に敵対する、と言いながら、そのとおりになっていないのは何故なのだ。

お答えいただけますかな?」

「・・・・・・・・」

郁離子不対。

郁離子、対せず。

郁離先生は、答えなかった。

答えられなかったのだ。

盗子退謂其徒、曰、甚矣、君子之私於天也。而今也辞窮於予矣。

盗子退きてその徒に謂いて曰く、「甚だしいかな、君子の天に私するや。而して今や、辞、予に窮せり」と。

盗人先生はその場を離れ、自分の仲間たちのところに戻ると、こう言った。

「ひどいもんだな、立派なお方がおてんとうさまのことを悪く言わずにひいきなさることは。しかし、もうわしに反論するコトバも無かったからな」

わはははは。わはははは。わはははは。

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「郁離子」巻下より。おてんとうさまがいい人の味方をしていないように見える最大の理由は、おそらく、文中の「※」の命題が「正しい」んだと思います。文明ニンゲンと天(地球、大自然)との利害が違う、ということなのでしょう。いや、その前に「※※」のように「天が一方に味方しているのではない」という命題が成立しているのか・・・。でもホントはいいひとは外からどう見えても実はシアワセなのではないか、という気もします。うーん。いずれにしても、そんなこともわからないのでは、「郁離子」をやめて「盗子」に書名を変更しなければなりませんぞ。やーい、やーい。

ところで、新年に当たりまして、河出文庫の責任編集・解題 中沢新一「南方熊楠コレクション T〜X」(1991〜92)を読了しました。南方は敬愛するに足るが、この責任編集者と語注を入れているみなさんは、自分の田んぼに水を引くばかりで、ヒドいひとたちだなあ、と思いましたが、古本屋で5冊3000円で買ってきたので彼らの印税になっていないから文句言ってもしようがないのだ。信奉者がカネ出して買ったのだろう。やーい、やーい。

 

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