平成29年12月12日(火)  目次へ  前回に戻る

魚の焦げたとこでご飯食って生きていたい・・・が、今日も食い過ぎ。どんどん着ぐるみ重くなる。

毎日寒く、かつ食い過ぎて苦しく、着ぐるみ(脂肪)はどんどん厚くなってくる。休みたいものである。

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元曲四大家の一人、白仁甫の作品から。

忘憂草、含笑花。 忘憂の草、含笑の花。

勧君聞早冠宜掛。 君に勧む、聞早(すみやか)に冠を掛(か)くべきことを。

「忘憂草」は萱草に比定されていますが、「述異記」に呉のひとがこの草を用いて憂い事を忘れた、という記事があり、クレージーマッシュルームみたいにキモチのよくなる草のイメージです。「含笑花」は蘭のこと。

「冠を掛ける」というのは、漢の逢萌の故事による。前漢の末、後に漢王朝を簒奪する王莽が、その方針に反対した子の王宇を殺した際、「親が子を殺すような社会に居たらどんなことになるかわからない」と言いまして、逢萌は

解冠掛東都城門、帰、将家属浮海、客於遼東。

冠を解きて東都の城門に掛け、帰りて家属を将(ひき)いて海に浮かび、遼東に客せり。

冠を脱ぎ、これを洛陽の城門に引っ掛けて(官を辞することを明らかにし)、一族郎党を引き連れて逃げ出し、東の海に船を浮かべて遼東半島に亡命した。

のであった(「後漢書」逢萌伝)。以来、「冠を掛ける」は官を辞して田舎に帰ることを言います。(英国の「桂冠詩人」の「桂の冠」とはまったく違います)

忘憂の草(を使ったようにイヤなことを忘れ)、含笑の花(のように笑いながら生きていこう)。

あなたには、早いとこ冠を門に掛けて隠棲してしまってほしいなあ。

那裏也、能言陸賈。 那裏(いずこ)や、能言の陸賈は。

那裏也、良謀子牙。 那裏や、良謀の子牙は。

那裏也、豪気張華。 那裏や、豪気の張華は。

歴史上(一人は伝説的であるが)の人物が三人出てきます。「陸賈」は漢の高祖の謀臣の一人で、当時の広州にあった南越国を舌先三寸で漢に従わせたひと。「子牙」は姜子牙のことで、紀元前十二世紀に周の武王の軍師として、殷を滅ぼすのに大功のあった太公望・呂尚の別名。「張華」はこのHPでも何度か出てきましたが、西晋の文人で、自然科学系の能力がたいへん高く「博物志」を著したひと。最期は八王の乱に巻き込まれて殺されました。

どこに行ったしまったのだろうか、言論の巧みだった陸賈さまは。

どこに行ってしまったのだろうか、名参謀だった太公望さまは。

どこに行ってしまったのだろうか、気位高かった張華さまは。

みんな、時の彼方に消えて行ったのだ。

そして、

千古是非心、 千古の是非の心は、

一夕漁樵話。 一夕の漁樵の話なり。

 これら数千年の歴史の中の、正義や不義の評価は、

 夕暮れ時に、しごとを終えた漁師や木こりたちが語りあうだろう。

漁師や木こりは世を棄てた隠者の友である。まことの思索は、名も知られぬ彼らの中にこそあるのだ。

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白仁甫「双調・慶東原」(変調の「めでたや東の原」の節で)(「元曲三百首」所収)。

はやく冠を掛けて、「毎日が日曜日」になろう・・・という呼びかけです。

蘭谷先生・白仁甫(名は樸。また太素とか白恒とも名乗っている)は、この曲のとおり仕官せず生きたひとです。金の泰和六年(1226)、真定の生まれ、白楽天の子孫と称し父祖代々金国に仕えて、父の白華も重臣であった。しかしながら少年時代に元の侵略により一家離散し、父が親しかった大詩人の元好問に保護され、その教育を受けて成長した。後、元朝の時代になってから、元に仕えていた父に再会。おやじやその上司である名将・史天沢に仕官を勧められるがこれを拒否し、後半生は江南一帯を放浪しながらあちこちの劇団向けに戯曲を作って暮らした。おそらく元の成宗(ボルチギン=ティムール)の大徳十年(1306)前後に亡くなったとされる。カッコいい。

 

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