平成29年12月5日(火)  目次へ  前回に戻る

湿潤気候の我が国を代表するニンゲン、「へびにんげん」でにょろん。王朝貴族うつけ少将がへびニンゲンへと変化した事情はこちらを参照のこと。

肝冷斎は「まだ火曜日、もうダメだー」と言って絶望してしまい、今日の更新できませんのでにょろん。そこでおいらうつけ少将が更新するのでにょろん。

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今のみなさんはあんまりご存知ないのですが、少し以前には(←と言いましても、うつけ少将にとっての「少し以前」は十世紀ごろと思われる)、今をときめくような実力者のことを「うるさしの者なり」と呼んでいたものなんです。

例えば、

宇治殿与二条殿逢途中給。御前相共下、二条殿随身近利、乍乗馬入傍小路不下、車過畢後打出高追前。

宇治殿と二条殿、途中に逢い給う。御前あいともに下り、二条殿の随身近利、馬に乗り乍(なが)ら傍らの小路に入りて下らず、車過ぎ畢(おわ)りて後、高く打ち出でて前を追えり。

古文を漢文みたいに書いているので難しい構文になっていますが、「近利」を「ちかとし」という人名だと理解すれば書いてあることはわかります。

宇治の前関白殿と、二条の現関白殿が(どちらも牛車で、供回りを連れて)道ですれ違った。牛車より前を警護する前駆けの者たちはどちらも馬から降りてすれ違ったのだが、二条殿の護衛の近利(ちかとし)という武士は、馬に乗ったままで横の小道に入り込んで下馬せず、宇治殿の牛車が通り過ぎた後で小路から堂々と出てきて、先に行った二条殿の牛車を追いかけた。

そこで、

宇治殿褰車後簾見、且感近利給、又被仰云、我随身有右流左死之者、今日可搦近利云々。

宇治殿、車後の簾を褰(かか)げて見、かつは近利に感じ給いて、また仰せられ云う、「我が随身に右流左死(うるさし)の者有り、今日、近利を搦めとるべし」と云々。

宇治殿は、牛車の後ろ側のすだれを掲げあげてそれを見、すぐに近利の行動を理解されて、そこでこうおっしゃった。

「わしの護衛にも「うるさし」なやつらがいるからな、今日こそ、近利めを捕まえてやろう」・・・とかなんとか、と。

・・・ということになるので、ちゃんと馬から降りてすれちがうようにしなければならんぞ、という「江家次第」第二十に出てくるエピソードなのですが、ここで「右流左死の者」という言い方があったことがわかります。

実は

其詞有由緒。

その詞には由緒あり。

このコトバには、起源があるのである。

(今から)二百年ぐらい昔の九世紀末から十世紀はじめごろのことになりますが、

菅家為右府、時平為左府。共人望也。

菅家右府たり、時平左府たり。ともの人望なり。

菅原道真が右大臣となり、藤原時平が左大臣となった。この二人はともにひとびとの望み仰ぐところであった。

道真さまが右大臣、時平さまが左大臣となったのは、昌泰二年(899)のことでございます。

其後右府有事被流、左府薨逝。故時人称有人望之者、号右流左死。

その後、右府事有りて流され、左府薨逝す。故に時人、人望の有る者を、号(なづ)けて「右流左死」と称するなり。

その後、右大臣は事件があって流され(道真左遷は昌泰四年(901))、左大臣の方は道真さまの祟りでカミナリにぶち当たって死んでおしまいになられた(時平横死は延喜九年(909))。このため、当時のひとは、ひとびとから望み仰がれるような人のことを「右は流され、左は死ぬ」→「右流左死(うるさし)」というようになったのである。

のでござりにょろん。

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「江談抄」第三より。「ほんとか?」と驚くひとがあるかも知れませんが、本に書いてあることですから、もしかしたらほんとかも知れまにょろん。

本日、肝冷斎は、ひとびとから望み仰がれるようなえらいひとたち=「うるさしの方々」と晩飯をともにしたそうで、その緊張感が彼を追い込んだのでしょう。にょろん。にょろん。

 

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