平成29年9月26日(火)  目次へ  前回に戻る

ぶたタク。世間のタクシーと違って、初乗りは三十円ぐらいだが、目的地になかなか到着しない。スピードも鈍いし、目的地を理解しようとしないのである。ふつうのタクシーを石や銅であるとすれば瓦や鉄に該当するであろう。(下記参照)

火曜日。もうダメだ。少し熱もあるようだが、鬱もあるようだ。

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硯は石を削り、鏡は銅を磨いて作るのがよろしい。

ところが、わしは

以瓦為硯。如以鉄為鏡而已。

瓦を以て硯と為す。鉄を以て鏡と為すが如きのみ。

瓦を硯に使っている。鉄を磨いて鏡にしているのと同じようなものだ。

必求其用、豈如銅与石哉。

必ずその用を求むれば、あに銅と石の如からんや。

要は目的に沿って使えればいいのである。どうして銅や石で作らねばならない、ということがあろうか。

人材だってそうであろう。ところが、

世常貴之。豈所謂苟異者耶。

世は常にこれを貴ぶ。あにいわゆるかりそめにも異をなす者ならんや。

「苟異」(こうい)は南朝梁・劉勰(りゅうきょう)の「文心雕龍」にあるコトバで、「雷同」の対です。文芸評論の中で、別段の理由も無いけど「そうですなあ」と同意しとけ、というのが「雷同」(カミナリが響きあうようにすぐに同意する)で、別段の理由も無いけど「ちょっとどうですかなあ」と反対しとけ、というのが「苟異」です。

世間では、みなさん銅や石の方を有り難がる。これこそ、ちょっと違うことを言って(自分が違いのわかるニンゲンだと示して)おけ、というやつなのではないだろうか。

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宋・蘇東坡「書瓦硯」(瓦の硯に書きつけたコトバ)「東坡題跋」巻五所収)。

やっぱりぶたなのにニンゲンみたいなふりしているので、ムリが出てきているのだろうか。やはり出来るひとは銅や石なので、ぶたは瓦や鉄であり、それも目的に沿って使えていないやつ、という存在なのだろう。ぶー。

 

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