平成29年9月5日(火)  目次へ  前回に戻る

この秋にこそ、みほとけに会いに行こう! でもふつうのひとはニンゲンのままではなかなか会えないかも。セミになってしまうと会いやすいかもしれないカナ?

カナカナカナカナ・・・。

と鳴いていたら、「ぽい」と捕まってここに連れてこられましたのじゃ。太ったのそのそしたやつでしたが、わしももう年寄りゼミなので動きが衰えておって、あんなやつに捕まるとはなあ。

そいつはわしに「ここでHPの更新をするのじゃ」と言いましたのじゃ。

さらに附け加えて「会社からでんわが来たら、その、あの、うまくやるのだぞ・・・」と言った。実社会との関係については非常に自信がないようであった。

「まさか、わしのようなセミにしごとをさせようという会社があるはずがないではないか」

と言ってやると、そいつは

「う、うん、そう、そうだと思いますよ・・・」

と言いながら消えて行ったのであった。カナカナカナカナ・・・

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なんといってもセミはまずこの詩集から引用でカナ。

人生不満百、 人生百に満たざるに、

常懐千載憂。 常に懐(いだ)く、千載の憂いを。

 ニンゲンの人生は百年にも届かないのに、

 なぜだかいつも千年ぐらい先のことを心配している。

自身病始可、 自身の病、始めて可なるに、

又為子孫愁。 また子孫のために愁うなり。

 自分のからだの病気がやっと治ったかと思うと、

 もう子や孫やその先の子孫の生業が成り立つのかどうかと心配し始めるのだ。

収穫や財産が気になってしまって、

下視禾根下、 下は禾根の下を視、

上看桑樹頭。 上は桑樹の頭を看る。

 下を向いては稲の根のさらに下をじろじろ見ているし、

 上を向いては桑の木のてっぺんのあたりをぎろぎろ見ているのだ。

そんなこんなで、

秤鎚落東海、 秤鎚の東海に落ち、

到底始知休。 底に到りて始めて休(や)むを知らん。

はかりのおもりは東の海にどぶんと落ちて、

海の底まで沈んで行って、ようやく(人生のことに悩むのを)止めるだろう。

ここだけ少し典拠があります。

「天聖広燈録」巻二五、牛頭山精禅師の伝にいう、

問、如何是古仏心。

問う、如何ぞこれ、古仏の心。

質問。「原始よりの代々のブッダの心というのはどういうものなんでしょうか」

師云、東海浮漚。

師云う、「東海の浮漚なり」。

禅師の答え。「あれは、東の海にぶくぶく浮いているアワだな」

「はあ?」

問、如何領会。

問う、如何ぞ領会せん。

質問。「どのように理解すればいいのですか」

師云、秤鎚落井。

師云う、秤の鎚、井に落つ。

禅師の答え。「はかりのおもりは井戸に落ちてしまったぞ」

東海のアワはすぐ消えてしまいます。井戸に落ちたおもりは二度と上がってきません。原始よりのブッダの心も無に帰ってしまっており、そのことを話題にしてもしようがない。本当にそれが知りたければおもりのように沈んで(死んで)しまえばわかるかも知れない。しかし、生きているおまえは今、ここで悟らなければならないのだ・・・。

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「寒山詩」より(一三五番)。地位や名誉や財産、さらには子孫のこと、わしらセミは気にしませんが、ニンゲンのみなさんには、この詩は聞こえておるのカナカナカナカナ?

 

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