平成29年2月5日(日)  目次へ  前回に戻る

トランプさん。アメリカとかメキシコとか○国とか国が亡ぶかどうかという問題になるのかな。そりゃ憂鬱でしょうね。

こちらは日曜日夜になったので、また精神的に追い込まれてまいりました。鬱・鬱。

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鬱・鬱ついでに、「鬱」という名前のひとの話。時代は十三世紀の半ば、金の滅亡間近のころ、です。

王鬱、飛伯、奇士也。少余一歳。

王鬱、飛伯は奇士なり。余より少(わか)きこと一歳。

王鬱、字・飛伯というのはおかしなやつで、年齢はわたしより一つ年下であった。

まずその見た目であるが、

儀状魁奇、目光如鶻、歩武翩然、相者云、病鶴状貌也。

儀状魁奇にして目光は鶻(こつ)の如く、歩武翩然、相者云う、「病鶴の状貌なり」と。

振る舞いや様子は目立って変であった。眼光ははやぶさのようで、歩き方はまるで羽を広げて飛んでいるようであり、人相観に言わせると「病気の鶴、という相ですな」というのである。

「病鶴相」は才能や思想はすばらしいのだが、自尊心が高くて出世するタイプではない。不慮の最後を遂げる相であるそうな。

その才能は、文章は柳宗元、詩は李太白の雰囲気を持っていた。

初めその文章によって程震さまの知るところとなり、何人かの名士たちと知り合って、正大年間(金・哀宗の年号、1224〜1232)のはじめにわたしの親父のもとにも紹介状を持ってやってきた。

おやじはその人柄を見て気に入り、わたしに友誼を結ぶように命じたのだが、おやじの推薦抜きにしてお互いに気が合うて、その後はどんな酒宴でもお互いの顔を見ないことは無い付き合いとなった。

やがて我が金国はモンゴルの圧迫を受けてついに南京(金の南京は、もと北宋のみやこであった河南・開封)に遷都した。このころ王鬱には官職は無かったが、多くの高官・名士と知り合い、

布衣少年、名動京師。

布衣の少年にして、名は京師を動かせり。

官職の無い若者のくせに、その名声はみやこ中に鳴り響いていたものである。

正大の末年から、南京がモンゴルに囲まれたとき、わたしも王鬱も、祖国と運命をともにするつもりで、都から離れないでいた。

ところが、天興に改元した年(1232)の秋、

飛伯忽過余、別曰、吾跧伏陥穽、不自得、今将突囲遠挙。然生死未可知。

飛伯、たちまち余を過ぎて、別して曰く、「吾、陥穽に跧伏し、自ら得ず、いま囲みを突きて遠挙せんとす。しかるに生死いまだ知るべからざるなり」と。

王鬱は突然わたしの住居に、別離の挨拶にやってきた。その言うところによれば、

「どうやらおれは敵対派閥のワナにはめられたらしく、このままでは無事に済みそうにない。そこで、モンゴルの包囲網を抜けて、ここから脱出することにした。生きてまた会えるかどうか、わからない」

と。

そして、

「おれが死んだと聞いたら、これを開いてみてくれ」

と一冊の冊子を渡して、去って行った。

「おい、いったいどこに行くつもりなんだ?」

と訊ねたが、やつはにやりと笑うだけで、答えなかったのである―――。

余不能止之而去、三年不知存亡。

余、これを止どむるあたわずして去り、三年存亡を知らず。

わたしは彼を引きとどめることができなかった。彼は行ってしまい、それからまる三年、その生死については知ることができなかった。

二年後(天興三年)、南京は陥落し、金国は滅び、わたしは身ひとつで南宋境内に亡命して、丙申の歳(南宋の端平三年(1236))になって、ようやく王鬱の情報を得ることができたのである。

飛伯初為東諸侯兵士所得、其将厚遇之。飛伯径行不設機、久之、為其下所忌、見殺。

飛伯はじめ東諸侯の兵士の得るところとなり、その将これを厚遇せり。飛伯は径行にして機を設けず、これを久しくしてその下の忌むところと為り、殺さる。

王鬱は、囲みを抜けたあと、山東方面にあった(金の)将軍の兵士に捕らえられたが、その将軍は彼を参謀として厚遇したらしい。だが、行動が直截で、はかりごとなどしないおとこである。しばらくすると、その将軍の配下の者に憎まれ、結局殺されてしまったというのだ。

殺されるとき、懐から書を出して、

是吾平生著述、可伝付中州士大夫、王飛伯死矣。

これ吾が平生の著述なり、中州の士大夫に伝付せよ、「王飛伯死せり」と。

「この書はおれのこれまで書き溜めた著述だ。みやこにいる士大夫たちにこれを持って行って、合わせて伝えてくれ、「王飛伯は死んだ」と」

と言ったというのである。しかし、その書は彼を憎む者たちによって顧みられず、伝わらなかった。

そこで、彼の遺したものは、三年前にわたしに預けて行った冊子だけとなってしまったのだ。

わたしは王鬱の死を聴いて、ようやく亡命中も書箱の中にしまってあったそれを開いてみた。

題していう「王子小伝」。王先生、すなわち王鬱自身の自叙伝であった。

今その全文を述べるにゆとりがないが、鬱は幼名を青雄といったそうである。まだ母親の胎内にあったとき、その父、夢に、こうごうしい人がやってきて、

開所負紫糸嚢、賜一大閨A且云。

負うところの紫糸の嚢を開き、一大閨iちゅう)を賜いて、かつ云う。

背負っていた紫のふくろを開いて、一羽の大きな鷲をくれて、おっしゃったのである。

吾後必来取。

吾、後に必ずや来取せん。

「わしはあとで必ずこいつを取り戻しに来るからのう」

その鷲は、地面に降ろされて、羽をひとふるいすると、鋭い声で鳴いた―――

というところで、目が覚めたのであった。

このことを占い師に話すと、占い師はおみくじを引いて、

他日必作、青雲之雄。

他日かならず青雲の雄たらん。

この子は、いずれの日か、かならず青雲のかなたに昇って、英雄となりましょうぞ。

と断じたのだった。

それから十八で父を喪ったこと、師という者もなくひとり読書して文章を磨いたこと、二十五のときにみやこに出て、多くの名士たちと交わったこと・・・などが綴られている。

彼がいうには、自分の志は単に文学にあらず、経世し民を済うにあるそうで、ただいまだ適当な官職を得ることができない。

進而不能行、不若居高養、行楽自適。

進みて行くあたわざれば、高養に居りて行楽自適するにしかず。

世の中ではたらくべき地位を与えられないのであれば、自らを高く養える場所にいて、楽しく過ごして自ら適うようにしたいものだ。

不為世網所羈、頗以李白為則。

世網の羈ぐところと為らず、すこぶる李白を以て則と為す。

世俗の網に引っ掛かってしまうぐらいなら、李太白のような自由が境涯を目指そうと思う。

のだ、と。

最後に、付き合いのあるひとたちの名前が並べられていた。これが彼のいう「中州の士大夫」なのだろう。

まずは「自分を深く知ってくれたひと」として、王族の完顔樗軒公や程震さまなど十人の名前があった。わたしのおやじの名が三番目に挙げられている。

それから、「楽しく従わせてもらったひと」として、元好問さんなど先輩方三十二人が列挙されている。わたしもお世話になった人たちだ。

その後ろに、もう一行あって、こう書かれていた。

至于心交者、惟李冶、劉祁二人而已。

心交に至れる者は、ただ李冶と劉祁の二人のみ。

心の交わりを持った、とまでいえるのは、李冶と劉祁(これがわたしだ)の二人だけだった。

李冶はそのときもう亡くなっていたから、それで王鬱はわたしにこの冊子を託しに来たのだったか―――。

自伝の最後はこう結ばれていた。

正大八年十二月、遇兵難、京城被囲。先生上書言事、不報。四月、囲稍解。五月、先生挺身独出、遠隠名山、不知所終。

正大八年十二月、兵難に遇い、京城囲まる。先生上書して事を言うも報ぜられず。四月、囲、稍解く。五月、先生挺身して独り出で、遠く名山に隠れて終わる所を知らず。

正大八年(1231)十二月、モンゴル軍に侵略され、みやこ包囲さる。このとき王先生、軍略について皇帝に策をたてまつるも、側近らに阻まれ、お答え無し。

翌年四月、包囲が少し緩んだ。

五月、王先生は、たった一人、身を挺して脱出。その後、遠く名山に隠棲して、どこでどう死んだのか、わからない。

あのときの王鬱が、どこか名山に籠って、この世の盛衰を見きわめようと思っていたのだということを、ようやく知ることができた。

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金・劉祁(字・京叔)「帰潜志」巻三より。この書を引用するのは何年振りかになりますが、大金帝国の滅亡と自身の亡命生活を描き、なかなか涙ちょちょぎれる名著であります。亡国の時はこの本が参考になりますよ。

 

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