平成28年7月25日(月)  目次へ  前回に戻る

「あ、こら、ぎゅうぎゅうするのはやめなさい!」「どうせ怒られるなら完全に落とちちゃってから怒られようかな」「落ちてしまえば楽になれるでブー」

更新も二日さぼってましたが、さらに今日はとうとう会社行かなかったんです。いろいろあって・・・。明日はどうしようかな。

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明日出勤するかどうか。明日しなかったら、「もう来なくていい」とずっと出勤しなくてよくなりそうで、悩ましいところですが、ひとに叱られたり褒められたりするのももう疲れたしなあ。

処毀誉要有識有量。

毀誉に処するには識有り量有らんことを要す。

けなされたり誉められたりしたときに、これに対処するには、「識見」と「度量」が必要である。

今之学者、儘有向上底、見世所誉而趨之、見世所毀而避之、只是識不定。

今の学者、すこぶる向上底(こうじょうてい)有るも、世の誉むるところを見てこれに趨り、世の毀つところを見てこれを避くるは、ただこれ識定まらざるなり。

ゲンダイの学問をしている者たち(アカデミズムのことではありません。知識人、読書人、支配者階級のことを広く指しています)には、たいへん向上しようというひともいる。しかし、彼らは、世論の褒めるところを見ると「こっちだこっちだ!」とそちらに駆けよって行き、世論がけなすところを見ると「うひゃあ、こちらはダメだ」とそれを避けるんです。これは、識見が定まっていないのですな。

また、

聞誉我而喜、聞毀我而怒、只是量不広。

我を誉むるを聞きて喜び、我を毀つを聞きて怒るは、ただこれ量広からざるなり。

自分が褒められるのを聞くと喜ぶし、自分がけなされるのを聞くと怒るのは、度量が広くないのです。

真善悪在我、毀誉於我無分毫相干。

真の善悪は我に在りて、毀誉せらるは我に於いて分毫も相干(あずか)る無し。

本当に「善い」か「悪い」かを判断するのは自分自身ですよ。けなされたり誉められたりすることは、自分自身にはなんの関係も無いはずなんですよ。

なるほど。

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「呻吟語」第122則

誉められたり叱られたりはどうでもいいんだ、ということが判明してきました。もうそんなこと気にせずに家でゴロゴロして暑くなったら水風呂に入っているのがいいんだ、きっと。

 

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