平成28年6月10日(金)  目次へ  前回に戻る

いつかたどりつくよね、理想の国に・・・などと夢見てもう老年に・・・。

ようやく週末。しゅうまつ? 終末でもいい。いや、来週が来ないだけ終末の方がよい・・・。

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この詩、季節外れとは承知するが、先月も先々月も、この分量のものを紹介する時間と気力が無かったゆえ、今日となったのだ。諒されたい。

さて、北京西側の豊宜門を出て一チャイナ里(5〜6百メートル)ほど行ったところに、さしわたしが腹の回りもあろうかという大きさの海棠が、八九十本植えられた広場がある。

花時車馬太盛、未嘗過也。

花時は車馬はなはだ盛んなれば、いまだ嘗て過(よぎ)らざるなり。

花の盛りのころは、見物客の車や馬でたいへん混雑するので、そのころはそのあたりには行かないようにしている。

けれど昨三月二十六日に風が大いに吹いた。

おそらく海棠の花は多く散ったであろう。客たちももう減ったであろう。

今日は風も収まったので、金応城、汪潭、朱祖轂、わしの弟の龔自穀とこのわし定盦先生、気心の知れたあわせて五人、城門から出かけてかの花園で酒を飲んだ。

しかしてこの作品ができたのである。

西郊落花歌

西郊落花天下奇。  西郊の落花は天下に奇たり。

古来但賦傷春詩、  古来ただ賦す傷春の詩、

西郊車馬一朝尽、  西郊の車馬一朝に尽き、

定盦先生沽酒来賞之。定盦先生、酒を沽い来たりてこれを賞す。

 都の西の郊外の海棠の落花は、天下にまたとないものである。

 いにしえから、春にはただ、春を悲しむうたばかりが綴られてきた。

 都の西の郊外でも車や馬が、今朝はまったく来なくなってしまったから、

 わたくし定盦先生は、酒を買ってやってきて、この落花を観賞しようとしたわけだ。

先生探春人不覚、 先生の春を探るは人覚らず、

先生送春人又嗤。 先生の春を送るは人また嗤う。

 先生も春の風景を訪ねようとしていたが、ほかのひとはそんなことに気づかなかったのだ。

 先生が春の行くのを送ろうと、花の落ちたあとに西の郊外に出かけるのをひとびとは嘲笑った。

先生はそんなことは意に介さず、

呼朋亦得三四子、 朋を呼びてまた得たり三四子、

出城失色神皆痴。 城を出でて色を失い神みな痴。

 友だちに声をかけたところ三四人ばかり(うち一人は弟だが)集まったので、「それでは出かけようと」と

城門を出てみたら、みんな顔色を変え、精神もぼんやりとしてしまった。

地上に落花が、びっしりと敷き詰められていたのだ。

如銭唐潮夜澎湃、 銭唐の潮の夜に澎湃(ほうはい)たるが如く、

如昆陽戦晨披靡。 昆陽の戦に晨(あした)に披靡(ひび)するが如し。

「銭唐の潮」というのは、浙東の銭唐江で、大潮の日に押し寄せる大波のこと。「昆陽の戦」は、後漢の建国者・光武帝劉秀が、わずかな兵を以て数十万という新国軍を打ち破り、甚大な戦果を挙げた会戦である。

銭唐江に押し寄せる大波が、夜中に高くみなぎるような。、

昆陽の戦いの日、逃げ出した敵軍のなびき広がったような。

あるいは、

如八万四千天女洗臉罷、八万四千の天女の臉(かお)洗い罷(お)わりて

斉向此地傾臙脂。   斉(ひと)しくこの地に向かいて臙脂を傾けしが如し。

 八万四千人もの天女さまが、化粧たっぷりのお顔を洗い終わって、

 臙脂(べに)で真っ赤に色づいた水をみんなでこの地に向かっておぶちまけになられような。

なんという不思議な景色であろうか。

奇龍怪鳳愛漂泊、   奇龍と怪鳳は漂泊を愛し、

琴高之鯉何反欲上天為。琴高の鯉は何ぞ反って天に上らんとするを為す。

 見たことも無い竜や怪しげな大鳥がふらふらと出てきている一方、

 いにしえの仙人・琴高がまたがっていた鯉はどうして天に昇って消えていこうとしているのかな?

天女も仙人もここに集まってきているから、

玉皇宮中空若洗、   玉皇の宮中、空しきこと洗うがごとく、

三十六界無一青蛾眉。 三十六界に一の青蛾の眉無からん。

天帝さまの宮中は今ごろ水に流されたように空っぽになり、

三十六も階層のある仙界中に、たった一人の青い蛾のような眉を描いた美女も、いなくなってしまっているのではなかろうか。

―――ばからしい。

いつまでこんなことを話しているのか。

又如先生平生之憂患、 また先生の平生の憂患の

恍惚怪誕百出難窮期。 恍惚として怪誕百出して期を窮め難きが如し。

 また、定盦先生(自分のこと)の従来からの憂鬱症状がひどくなってきて、

 ぼんやりしたおかしなこと・ばかげたことを次々と話しだして、いつまでも終わらなくなってきているようだぞ。

やっぱり先生はビョーキでしたか。

先生読書尽三蔵、   先生の読書は三蔵を尽くし、

最喜維摩巻裏多清詞。 最も維摩巻裏に清詞多きを喜べり。

 先生はあらゆる仏教経典を読み尽しておられるが、

 中でも特に「維摩経」がお気に入り―――すがすがしいコトバがたくさん散りばめられているから。

又聞浄土落花深四寸、 また聞く、「浄土は落花深さ四寸」と、

瞑目観想尤神馳。   瞑目して観想し、尤も神を馳す。

阿弥陀如来の浄土を描いた「無量寿経」中に、

 「浄土の地面は落ちた花びらで覆われて、その深さは十数センチもあるのだ」と書かれており、

(先生は)目を閉じて、その状況を観念して、その精神をその世界にめぐらせる。

けれど、

西方浄土未可到、 西方浄土はいまだ到るべからず、

下筆綺語何灕灕。 筆を下し綺語すること、何ぞ灕灕(りり)たる。

 西方浄土にはまだ行けないのだ。

 筆できらびやかな文章を書き、そのちりばめられたものの美しさを描き出そうとするのである。

ああ。

安得樹有不尽之花、  いずくにか樹に尽きざるの花の

更雨新好者、     雨を更(へ)て新たに好きもの有りて、

三百六十日長是落花時。三百六十日、とこしなえにこれ落花の時なるを得んや。

 なんとかして、つねに花の咲くが木があって、

雨に降られるごとに新しい花が咲くようになっていて、

一年三百六十日、来る日も来る日も永遠に、花が落ち散り敷いているようにならないものだろうか。

気が○っているか頭が▼になっているか薬物かなんかでイってしまっているか、と疑われてしまいそうな絢爛豪華な比喩が、これでもかこれでもか、と続けられて、落花の風景に作者がよっぽど大感動したんだろうなあ、と想像されます。

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定盦・龔自珍「西郊落花歌」

道光七年(1827)の作と伝わります。アヘン戦争前夜、清朝の漸く衰微していく中で、その先になにやら夢の世界(ユートピア)らしきものを連想させる「落花」の光景を永遠化しよう、というこの不思議な詩を、千年王国的革命への遥かな暗喩に読み取ったひともいたかも知れません。ちなみにこの詩は全篇一韻。はじめから終わりまで、ずっと同じ狂気が続いているような押韻になっております。

おいらはそんな千年王国よりも、この週末の夜こそが、永遠にならないものかと祈る。願う。まあ、もうすぐ否応なく西方浄土に行けると思うんですけど。

 

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