平成27年10月21日(水)  目次へ  前回に戻る

どちらが優位にあるのか? サルにタコがぶら下がっている?

分家・肝冷斎です。昨日もコドモが来てなんか騒いでいたようじゃった。「けしからん、コドモごときに自由にふるまわせおって」と思う向きもおありでしょう。じゃが、当方はオトナなので、シゴトでウツウツになっているためコドモにさえ対抗できないのである。

なにか戦略を練らねばならぬ。

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(1)新が滅んだあとの群雄のうち、張歩は劇の地に本拠を置き、弟の張藍に西安を守らせ、また別将に臨淄城を守らせていた。

その臨淄を去ること四十里(チャイナの一里は400〜600メートル)の地点に、漢の名将・耿弇(こう・えん)の軍が宿営していた。

耿弇は西安城は小さいながらも堅く、また張藍の兵は精鋭であるが、一方、臨淄は大きな城であるとは名ばかりで、実際には攻めやすいと見抜いた。

そこで、軍吏たちに兵器を整えるように命じ、

後五日攻西安。

後五日にして西安を攻む。

「五日後に西安城を攻撃する」

と告知した上で、捕虜たちを解放して自由に行動させた。

このことはすぐさま張藍の耳に入り、藍は昼夜分かたず警戒を強めた。

至期、夜半、弇勒諸将蓐食、及明、至臨淄城下。

期に至るに、夜半、弇は諸将をして蓐食せしめ、明に及びて臨淄城下に至らしむ。

まさに五日後、夜半に弇は諸将の部隊に食事をとらせ、夜明けに臨淄城の城下に兵を進めた。

護軍(軍目付)の荀梁らは

争之、以為宜速攻西安。

これを争い、以て速やかに西安を攻むべしとなす。

「なりませぬ」と反対し、「速やかにまず西安城を落とすべきにござりますぞ」と言った。

だが耿弇は、

西安聞吾欲攻、日夜為備。臨淄出其不意、至必驚擾、吾攻之、一日必抜。抜臨淄、即西安勢孤。所謂撃一得両。

西安は吾が攻めんと欲するを聞き、日夜備えを為す。臨淄はその不意に出づれば、必ず驚き擾(さわ)ぎて、吾これを攻むるに一日にして必ず抜かん。臨淄を抜かば、即ち西安は勢孤となる。いわゆる一を撃ちて両を得るなり。

西安城はわしが「攻めるぞ」と言っているのを聞いて、昼も夜も警戒を強めている。これに対して、臨淄の方は予想していないところへ攻勢に出ることになるから、必ず驚き大騒ぎになるにちがいない。そちらを攻めるなら、一日で攻略することが出来よう。そして、臨淄の城を落とせば西安を孤立させることができる。これこそ「一方を攻めて両方を占領する」ということではないか。

結局そのとおりになった。

(2)後漢の末、官軍の将軍・朱雋(しゅ・しゅん)が黄巾賊の首領の一人・韓忠の占拠する宛城を攻めたときのことですが、

雋作長囲、起土山、以臨其城内。

雋、長囲を作り、土山を起こして、以てその城内を臨む。

朱雋は城を包囲すると、土を積んで山を造り、そこから城内を見えるようにした。

そして、まず太鼓を叩いて城の西南方向から攻めたので、賊どもはみなそちら側に集まった。これを確認してから、

雋自将精兵五千、掩其東北、乗城而入。

雋、自ら精兵五千を将いてその東北を掩い、城に乗じて入る。

朱雋は自ら精鋭5,000人を率いて、東北側から城壁にとりつき、壁を越えて城内に侵入した。

韓忠はこれを見て詰め城に逃げ込み、ただちに降伏を申し出たのであった。

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以上は、

攻而必取者、攻其所不守也。

攻めて必ず取る者は、その守らざるところを攻むるなり。

相手が守っていないところを攻めれば、必ず攻撃に成功する。

という「孫子」の教えの実例である。国家に仕える者が学んでおかなければならないことである。

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「孫子」虚実篇・杜牧注より。杜牧は唐のひと、詩人として名高い。

オトナは昼間のシゴトの上に、夜はこういうことを勉強しているので、疲れてしまってコドモには太刀打ちできません。明日はまた「うっしっしコドモ広場」に明け渡さざるを得ないか・・・。
実は落ちそうなサルをタコが何とか持ちあげている?

※10月22日、尊敬する某氏より「なんでタコが浮いてるんや?」という質問を受ける。ヘリウムガスかなんかのせいだと答えたが、納得はされていないであろう。

 

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