平成27年10月20日(火)  目次へ  前回に戻る

我が国ではイモを食っても「大イモ食らい」といわず「大メシ食らい」という。のは米本位制の証左か。

昨日はオトナに邪魔されて更新できませんでちたが、今日は「うっしっしコドモ八人衆」の胆冷童子でちゅ。

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おいらたちのような「いい子八人衆」の例は過去にもあったんです。

晋の時代に兗州八伯」という方々がおられまちたのじゃ。「伯」は「覇」と同じで、同輩中の一番、の意。

この八伯の方々は当時、「中興(西晋の滅亡後、元帝が建業に即位して東晋を建てたこと)の名士」といわれた。

陳留阮放為宏伯、高平郗鑒為方伯、泰山胡母輔之為達伯、清陰卞壺為裁伯、陳留蔡謨為朗伯、阮孚為誕伯、高平劉綏為委伯、而曼為トウ※伯。

陳留の阮放は宏伯と為し、高平の郗鑒(ち・かん)は方伯と為し、泰山の胡母輔之(こぼ・ほし)は達伯と為し、清陰の卞壺(べん・こ)は裁伯と為し、陳留の蔡謨は朗伯と為し、阮孚は誕伯と為し、高平の劉綏(りゅう・すい)は委伯と為し、而して(羊)曼はトウ伯と為す。

陳留、高平、泰山、清陰はいずれも兗州の地名。※はヘンに「沓」という字で、「華美を好む」ことをいう。

陳留の阮放は広大は識見を持っていたので「宏」の第一人者といわれた。

高平の郗鑒は謹直方正であったので「方」の第一人者といわれた。

泰山の胡母輔之はいろんなことに通達していたので「達」の第一人者といわれた。

清陰の卞壺は事件を判断し取りさばくことが得意であったので「裁」の第一人者といわれた。

陳留の蔡謨は明るく高尚であったので「朗」の第一人者といわれた。

同所の阮孚は小さなことにかかずらわることなく大まかな性格であったので「誕」の第一人者といわれた。

高平の劉綏は細かいことをチェックするのに長けていたので「委」の第一人者といわれた。

そして、羊曼は華麗なことが好きであったので「トウ」の第一人者といわれた。

蓋擬古之八儁也。

けだし、いにしえの八儁(はちしゅん)に擬(なずら)うるなり。

これらは、古代の八元、後漢の八俊などの「八人の俊才」に見立てたのである。

晋以前にも「いい子八人衆」はたくさんいたんでちゅね。

一方、この八伯の八人め羊曼には羊耼(よう・たん)という弟がおりました。

こいつは

少不経学、時論皆鄙其凡庸。

少(わか)くして経(かつ)て学ばず、時論みなその凡庸なるを鄙とす。

若いころから少しも勉強をせず、世間のひとびとからは、「こいつは取柄のないやつだ」とさげすまれていた。

さて、

其後更有四伯。

その後、さらに四伯なるもの有り。

八伯のあと、今度は「四伯」といわれる者たちが出た。

大鴻臚陳留江キ※以能食為穀伯。

大鴻臚(だいこうろ)の陳留の江キは、よく食らうを以て穀伯と為す。

外国使節への対応を担当する大鴻臚の官に就いた陳留出身の江キ(「自」の下に「衆」の下半分をつける字)は、すごくよくメシを食うので「穀物」の第一人者といわれた。

豫章太守史疇以大肥為笨伯。

予章太守の史疇(し・ちゅう)は大いに肥せるを以て笨伯と為す。

予章の太守となった史疇は、すごく太っていたので、(竹の皮のような)「すかすか」の第一人者といわれた。

散騎郎高平張嶷以狡妄為猾伯。

散騎郎の高平の張嶷(ちょう・ぎょく)は狡妄なるを以て猾伯と為す。

散騎郎となった高平出身の張嶷は、ずるがしこくてうそつきであったので、「ずる」の第一人者といわれた。

而耼以狼戻為瑣伯。

而して耼は狼戻なるを以て瑣伯と為す。

そして、羊耼は、こころねじけて意地悪かったので、「難癖」の第一人者といわれた。

羊曼の弟の羊耼は、こちらの「四人の第一人者」の中に入れられてしまいました。

蓋擬古四凶。

けだしいにしえの四凶に擬うるなり。

これは、古代の舜に処罰された四人の悪人に見立てられたのである。

なのでちゅ。「悪い子四人衆」もむかしからいたのでちゅね。

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「晋書」巻四十九「羊曼伝」より。(「蒙求」巻中にも所収)

なんとなく納得いかんぞ。大メシ食らいとすごいデブとずるがしこいのとねじけているのが悪とされたのです。前二者はいまだ悪とはいえないのではないだろうか。大メシ食らいのいいひととかすごいデブの正義の味方とか、いてもいいような気がするぞ。この二者を悪にするなんて、コドモの考えのように浅はかにすぎるのではないでしょうか。

 

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