夜旅に出た。桃郷からだいぶ離れました。桃郷からどんどん遠く離れるにつれ、だんだん自分を取り戻す。
「だいぶん自分が戻ってきたぞー」
と思っていたら、
ぼよ〜ん。もくもく。
突然目の前に煙が湧いて、気を失った。
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気がついた。
ここは北宋の時代の嘉禾県(現代チャイナの浙江・嘉興県)です。そうそう、おいらはここで役人をしているのでした。
時為嘉禾小倅、以病眠不赴府会。
時に嘉禾の小倅たり、病を以て眠りて府会に赴かず。
そのころ、わたしは嘉禾の小役人で、その日役所の宴会があったのだが、体調が悪くて家で寝ていた。
でも家で寝て単にサボっているだけだ、と思われるとあとあとの付き合いも面倒なので、
「天仙子」(天界の仙女さま)
のうたの節で、替え歌を作って宴会場に届けた。
曰く、
水調数声持酒聴。  「水調」の数声、酒を持して聴きぬ。
午酔醒来愁未醒。  午酔醒め来たるも愁いはいまだ醒めず。 
「水調」は「水調歌」という古い歌のこと。隋の煬帝が大運河を掘る土木工事を起こしたときに、自ら「水を整えるのうた」と称して作ったのだという。
 いにしえのうた・水調歌のリフレーンをさかずきを手にして聞いていましたところ、
 昼間から飲んでいた酔いは(その悲しい歌声に)醒めてしまったが、我が心の憂いは振り払うことができませんでした。
(なのでまだ体調が悪いんですわー)
送春春去幾時回。  春を送れば春去りて幾時にか回(かえ)らん。
臨晩鏡、      晩鏡に臨み、
傷流景。      流景を傷む。
往時後期空記省。  往時期に後れ、空しく省を記せり。
 春が過ぎた季節、そして我が春は過ぎて行って、いつになったらまた戻ってくるのであろうか。
 夕べに鏡を覗きこめば、過ぎゆく月日に悲しくなった。
 あのころ、約束のときに後れたこと。いまも苦い後悔をともなって、むなしく思い出す。
何があったのでしょうねー。
なお、「臨晩鏡、傷流景」というのは唐の杜牧の
自傷臨晩鏡、  自ら傷みて晩鏡に臨む、
誰与惜流年。  誰とともにか流年を惜しまん。
 ひとり悲しく、夕べに鏡を覗きこむ。
 誰かわたしと一緒に過ぎ去った月日を懐かしんでくれないものか。
をちょっと縮めただけでそのまま使っている句だそうです。(唐圭璋「宋詞三百首箋注」(1957中華書局)による)
以上、第一連。
沙上並禽池上瞑、  沙上には並びいる禽、池上は瞑(くら)く、
雲破月来花弄影。  雲破るれば月来たりて、花は影を弄す。
 夜。水辺の沙の上にはつがいの鳥が仲良く並んでいる。池のあたりは暗くてよく見えない。
 ふと雲が切れて、その合間から月が現れると、水辺に咲く花と、その影が揺れているのが見えた。
重重簾幕密遮燈。  重々たる簾幕は密に燈(ともしび)を遮りぬ。
風不定、      風は定まらず、
人初静。      人は初めて静かなり。
明日落紅応満径。  明日、紅を落としてまさに径(こみち)に満つべし。
 何重にも重ねた簾やカーテンの奥で、ともしびはまだ消えないでいる(わたしは寝つかれない)。
 風は一向にやまないが、人の声はようやく静かになった(。家人たちは眠ったのであろう。)
 明日には、あかい花びらが風に落とされて、小道いっぱいに散り敷いているころだろうな。
以上、第二連。これでおしまい。
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宋・張先、字・子野「天仙子」詞。
これを宴会場に送ったらどうなったか、はまた明日。
最近、「詩」より「詞」を読む方がオモシロいんです。作る方もこちらの方がオモシロいらしいんですが(わたしは作れませんが)、とにかくパズルみたいになってて難解にみえるのですが、解きほぐしていくと実にわかりやすい「ニンゲンの感情」を謳っているので、型通りのことばかり言っている「詩」よりも、共感できるというか。おいらみたいな子ども向けの「ポエム」ぽいというか。