平成26年7月15日(火)  目次へ  前回に戻る

 

今日は中華で飲み会。うまかった。しかしちょっとビール飲んだだけなのに、アタマ痛い。

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本日の飲み会は和気藹々でした。しかし昼間のしごとでは殺気立つこともあった。

吉人無論作用安詳、即夢寐神魂無非和気。

凶人無論行事狼戻、即声音咲語渾是殺気。

みごとな対聯です。

吉人は作用の安詳を論ずる無く、すなわち夢寐(むび)の神魂も和気にあらざる無し。

よい人は、その行動が平安であるか穏当であるかは(当たり前なので)論ずる必要さえ無く、とにかく眠って夢をみている間の精神状態さえ、平和な気分に包まれている。

これに対し、

凶人は行事の狼戻(ろうれい)を論ずる無く、すなわち声音も咲語(しょうご)もすべてこれ殺気なり。

「戦国策」(「燕策」)に曰く、

趙王之狼戻無親、大王之所明見知。

趙王の狼戻にして親無き、大王の明らかに見知するところなり。

「趙国の王が心ねじけ、親しくする者とて無いのは、(燕の)大王さまのようく御存知のことでございましょう」

と。

「狼戻」(ろうれい)は「おおかみのように心がねじけていること」を言う。あるいは「狼」はドウブツの「オオカミ」ではなく「戻」と同義で「ねじける」の意である、とも言う。要するに、「おおかみのよう」であるかどうかは確かではありませんが確実に「心がねじけていること」をいう熟語。

わるいひとは、その行動がねじけて邪悪なものであるかどうかは(当たり前なので)論ずる必要さえ無く、とにかく歌う声、笑う声までもすべて陰険残虐な気分そのものである。

その上、実は同じひとが、こちらの主観でいいひとになったりわるいひとになったりもするのだから性質が悪い。

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明・洪自誠「菜根譚」前集より。

むかしの仲間(このひとも含む)とうまいもの食って、ほろ酔いで帰ってきて、寝る。これは「和気」だらけ(一緒にしごとしていたころには「殺気」もあったかも知れませんが・・・いや、無かったと思う)。すばらしい夜である。もしももう明日しごとに行かなくていいのなら、もっとすばらしい夜なのですが。

明日は「殺気」立たないといいなあ・・・。

 

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