平成25年10月9日(水)  目次へ  前回に戻る

 

しごと、今日もつらかった。明日はさらにつらくなる。今月末にはでかいヤマくる。そろそろ現世から逃亡しないとヤバいかも。

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ところで、現実世界にどれほどの価値があるのでしょうか。

清の康熙年間、湖南の洞庭山に乞食がおった。

貌似狂易、常行乞道上、夜則臥庵寺廡下。

貌は狂易に似、常に道上に行乞して、夜はすなわち庵寺の廡下に臥す。

容貌は狂いおかしくなっているようであり、いつも道端で物乞いを行っておって、夜になるとお寺の軒下で寝るのである。

僧侶たちはこいつをたいへん嫌がっていたが、追い払っても追い払ってもまたやってくるのであった。

わしの友人・汪鈍翁が洞庭を過ったとき、夜に泊まったお寺の軒下に彼がいた。

翌朝、出発してからしばらくすると彼があとをついてきているのに気づいたので、鈍翁はもともと好事の人であるから、立ち止まって

「おまえさん、何か思うところがあるなら教えてくれ」

と問いかけてみた。すると、乞食、にたりと笑い、

「おまえさんに、わかるかどうか?」

と言いて曰く、

不信乾坤大、  乾坤の大なるも信ぜず、

超然世莫群。  超然として世と群するなし。

口呑三峡水、  口に三峡の水を呑み、

脚踏万方雲。  脚は万方の雲を踏む。

 天と地がでかいと言われても信じることはできないね。

 世間さまから超然として、誰もわしのレベルに達するやつはおらん。

 わしの口は長江が四川盆地から流れ出てくる三峡の激流の水を呑み干してしまうし、

 わしの足は世界各地の雲をすべて踏み馴らして来たのじゃぞ。

洞庭から長江を少しさかのぼると「三峡」です。ゲンダイではでっかい三峡ダムというのがあるそうですが、むかしはたいへんな急流であった。

「な、なるほど、これは重要なことのような・・・」

鈍翁が慌ててその詩を書き写していると、また曰く、

有形総是仮、  形有るはすべてこれ仮、

無象孰為真。  象無きはいずれぞ真と為す。

悟到無生地、  悟ること無生の地に到れば、

梅花満四隣。  梅花四隣に満つ。

 有形の物質はすべて仮設されたものに過ぎない。

 すがた無きものの中のどこかに真理があるのだ。

 悟りに悟って何物ももはや生まれ出ることのない境地にまで至ったら、

 そのとき、おのずと梅の花の香りが四方からおまえを囲むであろう。

「なるほど、なるほど、なるほど」

さらにそのあと数詩を口ずさんだあと、乞食は

「だいたいそんなところじゃ。それではそろそろ・・・

一杖穿雲到上方、  一杖雲を穿ちて上方に到れば、

湖光山色総茫茫。  湖光も山色もすべて茫々たり。

乾坤有我能坦坦、  乾坤に我のよく坦々たる有り、 

明月清風底太忙。  明月も清風も底(なに)ぞはなはだ忙(いそが)わしき。

 一本の杖にすがって雲を通り抜け、上方のかなたに至れば、

 洞庭の湖のきらきらも山の色合いも、すべて茫漠として見分けもつかぬ。

 天地の間にゆったりと寛ぐわしからみれば、

 (世間では心を豊かにするものである)明るい月も清かな風も、なんともせわしないものに思えるのう。

わかるかな? わっはっはっはー」

と、大笑いした。

そして、手にしていた粗末な杖を空にのばすと、杖はずんずんと伸びて行き、はるか上空を飛んでいた雲をひっかけた。

「どれどれ・・・、よし、これはいい雲じゃ」

乞食は雲を、

つい、つい、ついいいーー

と地上近くまで引き寄せ、鈍翁の目の前でそれに飛び乗ると、またにたりと笑い、それから何処か遠くに飛び去って行ってしまったのであった。

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ほんとかなあ・・・。清・王阮亭「池北偶談」巻二十五より。

いずれにせよ現世にはやっぱりあんまり価値ないみたいだ、というのはひしひしと感じますね。

 

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