平成24年3月7日(水)  目次へ  前回に戻る

 

しばらく海外に亡命しておりましたが、今日からまた日本国内に戻ってまいりました。しかしなおしばらくは地下に潜伏中です。

最近、求められると布袋和尚を描くことにしていたから、もしかしたらそれが当局の忌避するところに当たって亡命の憂き目を見たのやも知れませぬ。

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布袋和尚(ほていさん)といいますのは、日本では江戸時代の半ばごろから「七福神」の中に数えられるようになられましたが、もと唐の末のころ、浙江・四明の地におったという実在の一僧のことでございます。

この僧、

身短而皤腹。

身短くして皤腹たり。

チビで、腹はぱんぱんに出ていた。

つねに

負一布嚢、中置百物。

一布嚢を負い、中に百物を置く。

布袋を一つ背負っており、その中にはあらゆるものが入っていた。

よく人ごみの中においてその中からいろんな物を取り出しては、ひとびとを呼び止めて

「よくよくご覧なされ」

と見させていたというので、ひとびとは彼を「布袋和尚」と呼んでいたというのである。

さて、和尚、臨終に当たって偈をなして曰く、

彌勒真彌勒、  弥勒、まことに弥勒、

分身百千億。  身を分かつ 百千億。

時時識世人、  時時に世人を識るも、

時人総不識。  時人総じて識らず。

 ミロク菩薩よ、ほんとのミロクさまよ、

 その身を百千億に分かちてあらゆる時代のあらゆる場所に遍在なさる。

 どんな時代においてもその世の中のことを知っている。

 ところが世の中のひとは、そのことをあまりよく知らないのだよなあ。

これによって、「布袋和尚」が弥勒菩薩の化身であったことがわかった。

―――というのであります。(宋・荘綽「鷄肋編」巻中より) (なお、本伝はこちらを見よ→「布袋伝」

その布袋和尚がどうして当局の忌むところになるのでありましょうか。

明の太祖・洪武帝、天下を平定して後、身分を隠して出御し、ひそかに民情を尋ねことがあった。

あるとき、近習数名とともにどこぞのご隠居さまに身をやつして、金陵城内の一寺を訪れたところ、堂内に布袋和尚の画像と、一詩あり。

曰く、

大千世界活茫茫、  大千世界は活茫々、

収拾都将一袋蔵。  収拾して、すべて一袋を将いて蔵(ぞう)す。

畢竟有収還有散、  畢竟、収まるあり、また散ずるあり、

放寛些子也何妨。  放寛すること些子(さし)なるもまた何ぞ妨げん。

 千の世界を千重ねたものを「大千世界」と申しますが、いまこの大地に広がる天下はいきいきとして、また広い。

 布袋和尚(すなわち洪武帝?)はその全体を収め拾いて一ふくろの中に入れてしまった。

 しかし煎じ詰めると、収まったかと思うと、今度は袋から散らばっていってしまうのではないかなあ。

 だから少しぐらい(袋の口を)ゆるめてみてもいいのではないかなあ。

それを見た太祖、目がぎらんと光った。

宮殿に帰るや、其の寺に一軍を指し向け、

尽誅僧。

ことごとく僧を誅す。

その寺の僧侶どもを皆殺しにしてしまわれた。

この詩は、当時の政治が極めて厳しく、多く言論弾圧の事があり、その際、一族皆殺しなどの残酷なる罰が下されたことを風刺したものであったのだろうが、

太露圭角、宜其受禍。

はなはだ圭角を露わし、その禍を受くるもむべならん。

たいへん批判しようという角が出ており、寺中皆殺しになったのも仕方ないことであった。

宋の時代に、岳珂がわずか七歳で書いたという賛ぐらいにとどめておけばよかったのだが。

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というのは、明のひと朗瑛の言である。(「七修類稿」巻三十七より)

ちなみに英雄・岳飛将軍の子孫である岳珂の賛とは、

行也布袋、坐也布袋。放下布袋、何等自在。

行くや布袋、坐するや布袋。布袋を放下せば何等の自在ぞや。

どこかに行くのも一布袋、じっとしていても一布袋。布袋を手放してしまえば、もっと自由になれるなあ。

というのである。なかなか深いではございませぬか。しかし当局者には伝わらぬでございましょうなあ。この賛を見ても当局者のみなさまは、

「え? これでオレらが何か批判されている?」

と首をひねるばかりでありましょう。

 

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