平成23年10月31日(月)  目次へ  前回に戻る

 

こんにちは。また月曜日ですね。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

さて、南宋のころでございます。

夏至の日のこと、劉元城先生のところでは門人が集まりまして、

陰陽消長の理

(陰と陽が、互いに消えたり長じたりしながら相変わっていくことのセオリー)

について議論をしておりました。

先生がおっしゃるには、

物禁太盛者、衰之始也。

物、太(はなは)だ盛んなるを禁ずるは、衰の始めなればなり。

「ものごとについて、非常に盛んになるのはよくないこととされている。何故とならば、盛んになることは衰えることの始まりだからなのじゃ」

と。

夏至が過ぎれば日の長さは短くなっていきます。どんどん短くなって、陰の気が窮まったときには、今度は冬至を過ぎて日が長くなってくる。どんどん長くなって、陽の気が窮まりますと、また日は短くなっていく・・・。

「窮すれば変ずるが世のならいじゃよ」

「なーるほど」

門人の某が大きくうなずきまして、

「いやあ、本当にそうですなあ」

とヨイショ的に相槌を打ちまして、続けて問う、

「歴史の流れにおいても同様のことが言えますよね。わたしは、漢の宣帝の甘露三年(紀元前51年)は、匈奴の呼韓邪単于(こかんや・ぜんう)が投降してきた年で、この年が漢の全盛期だった、と思うのですが、同じ年に、

王政君得幸皇太子、生帝驁於甲観画室。

王政君、皇太子に幸を得て、帝・驁(ゴウ)を甲観画室に生む。

皇太子(後の元帝・劉奭)が王氏の女(政君)とマグわられまして、王政君は宮中の甲観画室という場所で後の成帝・劉驁を御生みになられた。

これが、王氏が外戚として権力を握るようになった最初の機会であり、ついには王氏の一族・王莽が「漢」の禅譲を受けて「新」を興す(紀元後9年)に至る「兆し」であったわけです。

此正夏至生一陰之時。

これ、正に夏至に一陰を生ずるの時なり。

これこそまさに、夏至の日にすでに後々冬至にまで至る最初の陰のひとかけらが生まれている、ということでございましょう」

これを聞いて、先生、

然。

然り。

「そのとおりじゃ」

とお頷きになられました。

「よくそこまで理解したものじゃな」

とお褒めになる。

門人某は得意になってにやにやしました。

だが、先生は、お話を続けた。

「しかし、そこまでではまだまだじゃ。「漢」は、「新」にとってかわられたが、しばらくして、「後漢」として再び天命を受け、国家を興した(紀元後25年)。さて、その兆しはどこにあったと思うかな?」

・・・・・・・・・・・・・・・・・・

ほぼ、宋・王勉夫「野客叢書」に拠って書いております。ひとの書いたもの訳しているだけだから楽チンです。・・・しかし今日は帰ってくるのが遅かったので、うひゃあ、明日も仕事なのに、もうすごい時間になってしまいました!と驚くような時間になってきましたので、もう寝ます。この続きは明日以降。

 

表紙へ  次へ