平成22年11月29日(月)  目次へ  前回に戻る

←東嶺の山荘より望む。

浙江・平陽のひと、霽山先生・林景煕というひとと会った。先生、字は徳晹(とくえき)といい、南宋の淳祐二年(1242)の生まれ、亡くなったのは元の至大三年(1310)ですから、もう死んでいるひとです。

死んでいるひとと何故会えるか。精神に共通の波動があれば会えるんだ。・・・いや、なんというか、死んでいようが会いたいときには会えるのですよ。まだ生まれてないひとにも会おうとすれば会えるように。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

冬のはじめのこの季節、先生とは破れ障子の山荘で同宿したのである。

わたしども二人のほかには客もいない。囲炉裏にあたりながら、先生はおもむろに言う、

「わしの若いころに国が滅びましてな・・・」

「ああ、そうですね、先生はいわゆる南宋の遺民、元に入って「南人」と呼ばれ社会的な地位を失った人たちの一人でしたな」

「うむ」

と頷いて、うたうて曰く、

偶伴孤雲宿嶺東、  たまたま孤雲を伴うて嶺東に宿せば、

四山欲雪地炉紅。  四山雪ならんと欲して地炉は紅なり。

 たまたま、ちぎれ雲とともに嶺の東のこの山荘に泊まりに来た。

 四方の山はもう雪降ろうとする寒さ、囲炉裏の紅の炎に暖をとる。

と、北風にばたばたと破れ障子が鳴った。

その障子紙に目をやった先生、ややあって「おお」と声をあげた。

―――なにに感動してやがるのだ、このじじいは。

と思いながらわたしも目をやって―――「ああ」と嘆じてしまった。

その障子紙は、細かい文字がびっしり書かれた反故紙を貼り直したものだったのだが、その文字をつらつらと読むに、それは南宋の時代に書かれた封事(上奏書)の下書きであったのだ。おそらくはこの山荘の以前の主人が南宋の官員で、国の滅びいくのを少しでも押し止めようと意見書を書いたものでもあろう。

●軍備を整えるべきこと。●そのためには国家の冗費を節約すべきこと。●不足する軍費のために新たな税を徴すべきこと。●新たな税を徴するために民生を安定させ産業を興すべきこと。そして、●何よりも教育を行き渡らせ、●国の誇りを思いださせること。

繋ぎ合わせると、そんなことが書いてあるようだ。

先生、いう。

何人一紙防秋疏、  何ぴとぞ、一紙、秋の疏を防がんとして、

却与山窗障北風。  却って山窗に与えて北風を障(さえ)ぎる。

秋にあいた穴を防ごうとして、一枚の紙を山に向かった窓に張り込み、

北からの風をさえぎろうとしたのは、いったいどんなひとだったのだろうか。

「北風」には実際の冬の北風に、北から吹き込んできたモンゴル軍を掛けているのである。(「山窗新糊有故朝封事稿、閲之有感」山窗に新たに糊して故朝の封事の稿有り、これを閲して感有り

亡国の哀しみ、眼前の情景を用いて歌い上げ、その沈鬱と凄絶なること比類ないと評さる。

「先生、そういえばこの間、こんな本を手に入れましたよ」

とわしは先生を慰めようと思い、宋末の愛国詩人、ゲリラ戦を指導してついに元に捕らわれ、フビライ汗に帰順を求められながらも国に殉じて死を選んだ文山・文天祥(「正気の歌」のひとです)の文集を見せた・・・ところ、先生、

「うおおおおおお」

と感極まり、うたうて曰く

書生倚剣歌激烈、  書生剣に倚(よ)りて歌激烈、

万壑松声助幽咽。  万壑の松声、幽咽を助く。

世間泪洒児女別、  世間の泪は児女の別れに洒(そそ)ぐも、

大丈夫心一寸鉄。  大丈夫の心に一寸の鉄あり。

 読書人であった文天祥は、反抗の剣に依りかかりながら、激しい戦いの歌を歌うた。

 あらゆる尾根に生える松の風の音が、(わしの今の)しのび泣きを助けてくれるわい。

 世間さまでは涙というのは、女こどもが別離に当たって流すものだと思うておろうが、

 立派な男衆の心の中にも一寸の鉄が通ってい(て、これが震えるときには涙流れ)るものなのだ。

そして、わしをぎろぎろと涙に濡れた目で見つめて、こわかった。(「読文山集」文山集を読む

興奮させてしまってまずかったのである。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

あまり刺激しないようにしないといけません。もうすぐ当方もこうなるかも知れませんからね。→ほかのひとの詩も読んでみましょう。

 

表紙へ  次へ