平成22年8月29日(日)  目次へ  前回に戻る

ときどき秋の空

今日は博物学者として、飯能の奥、名栗の沢に行って龍のいる淵がないか調べてきましたが、あまり見つかりませんでした。それにしても龍の存否を見分けるのは難しいですね。わたしはいない場所はだいたいわかるが、いる場所がなあ・・・。

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唐のころ、長安には「龍戸」と呼ばれる職能民があったそうです。

彼らは

見水色即知有龍。

水色を見れば即ち龍有るを知る。

淵や池の水の色を見ると、そこに龍がいるかいないかわかる能力を持っていたのだ。

―――!

現代のみなさまは、そんな能力を持つひとびとがいたと聴くと驚くことでしょう。今や龍はいないと考えられておりますが、本当は龍はおります。そうでなければ、それがそこにいるかどうかを見分ける世襲の職業が成立するわけがありません。

あるひとがこの龍戸に依頼して、池の色を調べてもらったところ「龍がおります」という答えであった。

そこでそのひと、池に入る水をせきとめ、池水を汲み出して龍の姿を見ようとした。すばらしい実験精神です。

しかし、水底から出てきたのは、

但如鰍魚而已。

ただ鰍魚(しゅうぎょ)の如きのみ。

ただ、どじょうのようなものだけであった。

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「南部新書」巻丁より。

この実験は失敗だったようです。しかし、一件だけ失敗しただけで龍がいないという証明にはなりませんので、当時はかなりいたものと思われます。といいますか、よくよく読んで見ると、実験結果で出てきたモノは「鰍魚(どじょう)の如し」といっているだけで、「どじょうだった」とは言っておりませんので、実はそういう形の龍だったのかも知れません。

いずれにせよ、科学というのはこのような無名の科学者たちの何の役にも立たないような気もする無償の実験精神に基づいて進歩してきたのだと思えばアタマも下がる。

ちなみに、本日「ジャンゴ・ラインハルト伝」を読了す。ジプシー(マヌーシュ)は先祖より伝承した方法で、図面が無くてもキャラバンを組み立てることができるそうです。彼らの間では「男は何の役にも立たずに遊んでいる」のが名誉なこととされ、そうしていられるようにする女が称賛されるので、女どもはがんばったそうです。勉強になった。

 

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