平成22年6月22日(火)  目次へ  前回に戻る

夏至も過ぎたし、すべてが下り坂。やる気ない。いろいろエラいことになってしまっていますが、自分がいけないのだから仕方ない。ここも逃げ出すしかないのか・・・。

「はあ・・・・」

とため息つきながら、久しぶりで晩清のひと、庸闕ヨ老人・陳其元「庸闕ヨ筆記」をごろごろ読みしていた。

・・・陳其元の祖父が述懐するには、

―――わしは若いころ「論語」を読んで、

及其老也、戒之在得。

その老に及ぶや、これを戒しむるに「得」に在り。

老年になると物欲が強くなるから、「手に入れたい」というキモチを持たないように自分を律しなければならん。

という語に出会い、どうしても納得できなかったものじゃ。

「ひとは老人になれば何事にも淡白になるのではないか。どうして欲深になることがあろうか」

と思っていたからである。

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この「論語」のコトバは季氏第十五にあり。

この篇には「三友」とか「三楽」とか「三畏」とか「生知・学知・困学」などの孔子お得意?の「三題バナシ」がいくつか収められていますが、その一つに「君子三戒」というのがあります。

孔子曰、君子有三戒。少之時、血気未定、戒之在色。及其壮也、血気方剛、戒之在闘。及其老也、血気既衰、戒之在得。

孔子曰く、君子に三戒あり。少き時は血気未だ定まらず、これを戒むるに色に在り。その壮に及ぶや、血気まさに剛、これを戒むるに闘に在り。その老に及ぶや、血気既に衰う、これを戒むるに得に在り。

孔先生がおっしゃった。

きちんとしたひとには三つの戒めごとがある。

若いころは血気がまだ一定にならないので(やりすぎたりするから)、エロスのことに気をつけねばならぬ。

オトナになったら、血気がさかんになるから、争いごとに気をつけねばならぬ。

年をとると血気が衰えてくるので、今度は貪り得ようという欲望に気をつけねばならぬ。

大聖人の言葉ですから、よく噛みしめて味わわねばなりませんぞー。

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さて、わしは官吏として半生を送ったが、最後に除州の府令になったときはもう年六十をいくつか過ぎていた。

あるとき所轄内で裁判ごとがあったのだが、その判決の数日前になって、ある有力者がわしの老後の生活のために一万金を融通するから、共同で事業を起こす気はないか、と言ってきた。ありがたいお話だが、よくよく調べるとその有力者は裁判の一方の当事者の姻戚に当たることがわかったので、きつくお断り申し上げたのじゃった。

ところが、わしはもともと夜はぐっすりと眠れるタイプであったが、

是夜忽輾転不寐。

この夜、たちまち輾転(てんてん)して寐(いね)られず。

この晩は突然、ごろごろと寝返りを打つばかりで眠れなくなってしまったのじゃ。

はじめはどうしてだかわからなかったのが、やがて、一万金の融通を惜しむ心があるのだ、と気づいて、自分を叱りつけ、それでようやく眠ることができたのである。

我乃今始服聖人之言也。

われすなわち今始めて聖人の言に服せり。

わしはようやくそのときになって、聖人・孔子のお言葉に間違いが無かったことに気づいたのである。

――――「なるほど」

陳其元はじいさまの話を聞いて頷き、じいさまに申し上げたのだそうである。

「お祖父さま、わたしも今ようやく、かつて除州にいたころ、お祖父さまが深夜にベッドの上で、

自批其頬、罵曰、陳某、何不長進若此。

自らその頬を批して、罵りて曰く、「陳某、何ぞ長進せざることかくのごとくなる」と。

自分で自分の頬にピンタを食らわしながら、自分を罵って、

「陳なにがし(←祖父の名が入る)よ、どうしてお前は何も進歩しないのだ!」

と叫んでおられた。

その理由がようやくわかりました。あのころはお祖父さまがおかしくなられたのではないかと、孫たちで震えていたものでございます」

と。

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「庸闕ヨ筆記」巻一より。なんとなくほほえましい、じじいと孫の会話でした。

わしも自分をピンタしないといけないぐらい自己嫌悪しなければならないほどダメなニンゲンなのです、ということはわかっているのですが、なかなかそこまで自己嫌悪もできず、まあいいか、と何とか誤魔化そうとしているので本当にイヤになって自分をピンタしないといけないぐらい反省しないといけないのですが、そうもできないので本当にイヤになってきます。・・・はあ・・・。

 

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