↓健康上の理由ではしかたがないのだにゃあ。

 

平成21年 6月21日(日)  目次へ  一昨日に戻る

健康上の理由にてしばらく更新できそうにない。

多年負屋一蝸牛、  多年屋を負う一蝸牛、

化做蛞蝓得自由。  化して蛞蝓と做(な)りて自由を得たり。

火宅最惶涎沫尽、  火宅最も惶(おそ)る、涎沫の尽きんことを、

偶尋法雨入林丘。  たまたま法雨を尋ねて林丘に入る。

「蝸牛」(カギュウ)はカタツムリで、「蛞蝓」(カツユ)はナメクジ。

尾張藩士・内藤某は自ら右手の中指を斬りおとし、

――もはや刀の柄握り難し。

と言うて禄を返し、髪を剃って丈草法師と名を替えて、近江湖南の寺に隠れ住んだ。

そのときに口ずさんだ詩だということである。

 長いこと一軒の家を背中に背負ってうごめいてきた。まるでカタツムリのようであった。

 変化して、背中に家を背負っていないナメクジになることができました。もう自由なのだ。

 この世界で恐ろしいのは(カタツムリでもナメクジでも)ぬめぬめのよだれのような体液が乾いてしまうことであるが、

 このたび仏法のありがたい雨が降っていたので、それにしっとりと濡れようと深山の中のお寺に入り込んだのだ。

というのである。

カタツムリとナメクジの比喩が秀逸ではあるまいか。

また同じとき、

凉(すヾ)かぜにき(消)ゆるを雲のやどりかな

とも。

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伴蒿蹊「近世畸人伝」巻之五より。わしも。

 

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