↓「嗟嘆せり」がおもしろいでわん。

 

平成21年 6月16日(火)  目次へ  昨日に戻る

6月2日の続きです。

薛敬軒先生のことですが、先生と先生の父君が本当の学問と信ずる宋儒の教えを十分に学んだ・・・と思われたころ、父君は先生に、科挙試験を受けるように命じた。

父の命ならば孝子にこれを拒むことはできませぬ。

「あい、わかりました」

と受けて、永楽辛丑年、というのは十九年(1421)になりますが、この年の進士第に登った。

その後、宣徳年間(1426〜35)のはじめには監察御使となった。

このころの帝国の内政を切り盛りしていたのは、楊子奇、楊栄、楊溥の三人の有能な官僚で、彼らはまとめて「三楊」と呼ばれ、彼らの辣腕によって

政事は公平なるを得、倉庫には穀物が余っている。

とうたわれる状況であったが、その三楊が若手で気骨のあるやつと評判の薛敬軒に興味を抱き、ひとを介して一度面会に来るよう誘ったことがあった。

しかし先生は

職司弾事、豈敢拝謁公卿。

職として弾事を司るに、あに敢えて公卿に拝謁せんや。

わたくしは官僚の非違を追及する職を与えられております。どうして大臣たちに拝謁することができましょうか(。そんなことをしたら高位高官に擦り寄る者と見られ、引いては国政の公平性が疑われてしまいましょうぞ)。

と言うて面会しなかったので、その態度を

三楊嗟嘆焉。

三楊、嗟嘆せり。

三楊の方々は「おお」と声を上げて称賛した。

そうである。

三楊は優秀な官僚であったが、この時期、皇帝や三楊らの背後にあって政治の実権を握っていたのは、宦官の王振というひとであった。

王振は山西の大同の出身である。

あるとき、三楊らに

「わしの郷里である山西出身者で、将来有望な若者といえばどんなやつがおるのかのう」

と問うたところ、三楊は口をそろえて、

「山西・河津の薛瑄にございましょう」

と推薦した。

このため、この年の異動で、敬軒は大理寺正卿に抜擢されたのである。首都の高等裁判長(兼高等検察局長)に当たる重職であった。

三楊は敬軒に王振にお礼に行かせようとしたが、それを肯んずる先生ではなかった。

そうこうしているうちに、たまたま

遇振于東閣、百官皆跪、先生長揖不拝。

振に東閣に遇うに、百官みな跪くも、先生は長揖して拝せず。

王振さまに宮内の東閣でお会いすることがあり、ほかの多くの官僚はみな跪いてご挨拶したが、先生は胸の前で手を組む揖礼を取り続けるばかりで、頭さえ下げなかった。

「あれが薛瑄か・・・」

以降、王振は、先生のことをたいへん不愉快に思うようになったのであった。

せっかく期待して抜擢してやったのに、これでは頭に来て当然であろう。えらいさんのことを何だと思ってるんだ。全くでございます。けしからんやつでございますなあ。

そんなとき、一事件が起こりました。

・ある男Aが死んだ。

・その男Aの妾アは、別の男Bのもとに嫁ぎなおそうとした。

・これに対し、男Aの正妻イは、それを認めなかった。

・すると、妾アは、男Aが死んだのは、正妻イが毒を盛ったせいである、と官に訴え出た。

敬軒はいろいろと背景を調べて妾Aの訴えは根拠が無いことを暴き出し、妾Aを罰する判決を下したのであった。

・・・が、

――王振さまが敬軒のことを不快に思っておられる。

ということをようく知っている御史の王文という男が、

「薛瑄は事件を間違って解釈し、私情を以て罪無き者を処罰しようとしている。職務を利用して大悪を為す者である」

と弾劾文を提出し、敬軒は官を罷免された上で獄に下され、王文から「死罪」を求刑されるに至った・・・。

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今日は健康上の理由もあり、ここまでにします。宮仕えのひとはいつ刺されるかわからんからコワいですね。気をつけた方がいいですよ。

「明儒学案」巻七より。

 

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