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平成21年 6月15日(月)  目次へ  昨日に戻る

6月8日より続く。

・・・関門の上から、じじいは呼ばわった。

人為世情所迷、名利所惑、恩愛所牽、認仮棄真、立不起志気、振不起精神、用不得功力。

ひと、世情の迷わするところ、名利の惑わするところ、恩愛の牽くところと為れば、仮を認めて真を棄て、立つるも志気を起こさず、振るうも精神を起こさず、用うるも功力を得ず。

「ニンゲンは、世間の人情に迷わされ、あるいは名誉や利益に惑わされ、あるいは恩義を受け愛情を注ぐ相手に引きずられたりすると、仮想のことを真実だと認識するようになり、真実を放棄してしまうのである。そうなれば、独り立ちしようとしても志や気力は起こらず、がんばろうと思っても精神力は起こらず、力を出そうと思っても力を出すことができなくなる。

これ、妄想関に止められた、ということなのであるぞ」

年寄りのくせによく通る声だ。

と、そのときはわしは思った。

「天地の間に立ち上がり、まことの道を求めようとする立派なニンゲンは、そうではない。

以性命為重、認真弁事、勇猛向前、終始如一、志念堅固、窮究道理、尋師訪友、真履実践。

性命を以て重しと為し、真を認めて事を弁じ、勇猛にして前に向かい、終始一の如く、志念は堅固にして、道理を窮究し、師を尋ね友を訪ね、真に履(ふ)み実に践(ふ)む。

ほんとうの命を大切にし、真実を認識して事実を理解し、勇ましく前進し、始めも終わりも一定の気力を持ち、志や思いは堅く、タオの理を研究し、師匠を探し学友を求め、ほんとうのことを現実社会において実践する。

これ、妄想関を通り抜けた、ということなのであるぞ」

「ふむふむ」

と聞いているとき、すぐ側のかっこいい男女の修道者たちが、

「このひと、何に対して「ふむふむ」と言っているのだろうね」

「しかも上の方を見つめてねえ」

「キモチ悪い」

とわしの方を見て何か言うておる。

わしが答える前に、わしの横にいたひげむくしゃらの不潔そうなおっさんの修道者が、

「おいおい、みなさん、あのじじいの声が聞こえないのか。このひとはあのじじいの言葉を聞いているのではないか」

と言ってくれたのですが、しかし、かっこいい人たちは、

「はあ? 何も聞こえないよ」「じじい? そんなのいないわ、キモチ悪い」「だいたいこのひとは不潔だな。自分を管理できない、というのではダメだね・・・」

と、そのおっさんの修道者を批判し、

「さああっちに行こうぜ、ここは二人もキモチ悪いのいるから」

とあっちの方に行ってしまったのであった。

そのひとたちからそう言われてみると、わしも、

「よく考えればあんな門の上から何やら言っているじじいの言うことを聞いていて何になるのであろうか・・・」

と迷いが出てまいりました。

じじいはまだしゃべっている。

「よいか、現実世界で

走過一歩是一歩、行過一事了一事。

一歩を走過してはこれ一歩なり、一事を行過しては一事を了せよ。

一歩を進めれば、それはほんとうの一歩である。一事を行えばそれはほんとうの一事を終えた、ということなのじゃ。

だから昼も夜もおこたらず、一時一刻ごとに用心せよ」

しかし、ですな。

ほかのひとが聞こえない、というのだ。なぜわしだけが聞かねばならないのか。

そう思っていると、さっきまで巨大に見えていた「妄想関」が徐々にかすみ、ぼやけてきた。

その脇からおっさんの修道者が、

「ふむ。・・・さきほどのやつらのような表面だけ飾った修道者にはなりたくないのう。あの門の上のじじいは賢者の張・・・さま、お言葉を聞くだけでもありがたいことなのに・・・」

とわしに声をかけてきたのであるが、ぼんやりしたまま

「いや、ホントに関門の上の方にじじいはいるのでしょうか・・・あのひとたちのいうように居ないのでは・・・あのひとたちはかっこいい、すなわち現世における勝者、すなわちすぐれた方々なので、すぐれた方々のいうことは正しいのでは・・・」

と答えるわしであった。

「む。・・・これ、おまえさんまで何をいうか、しっかりしなされ」

とおっさんの修道者は言うのだが、

「そうだ、わしはどこにも行く必要はないのだ・・・、ここにずっといればいいのだ・・・」

とわしはつぶやいた・・・。

そのときである。

どよーん、どよーん、どよーん・・・。

鈍い鐘の音とともに、じじいが一段と声を張り上げたのであった。

「わしの言葉がそろそろ聞こえず、わしの姿が見えなくなってきている者もいるであろう。他人の妄想を真似て自分の妄想を作り出してしまう者がいるものなのである。

只尽自己之事而不預期他人之事。

ただ自己の事を尽くして他人のことに預期せざれ。

ひたすら自分の現実に関して力を尽くせ。他人のことに関与する必要はないのだ!

わかっとんのか!

と怒鳴ったのであった。

怒鳴られると弱いわしは、しかたなくじじいの言葉に耳を傾けた。

耳を傾けていると、不思議に「妄想関」はまたはっきりと見えるようになってきたのである。

じじい、曰く、

至于明道成道、聴其自然、随其天縁、絶不妄想。

明道に至りて道を成し、その自然を聴き、その天縁に随いて、絶して妄想せざれ。

「光輝くタオを確信してタオに沿って行動し、そのあるがままを聴き取り、その本質の方向性に従って進み、絶対に妄想に捉われるな。」

――絶して妄想せず。か・・・。

妄想関はさらにはっきりと見えてきて・・・、

あれ? さっきまでは分からなかったが、関門の左下の方に小さな「潜り戸」があるのに気がついた。正門の脇にあって、使用人や身分の低い者が通るための通用口である。

例のおっさんの修道者もそれに気づいているみたいで、

「おお、あなたも気づかれましたな。さあ、あちらに行ってみましょう・・・」

と言うので、

「は、はあ・・・」

とわしもその方に近づいて行った・・・。

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清・悟元道士・劉一明「通関文」より。

 

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