平成21年11月2日(月)  目次へ  前回に戻る

14世紀の半ばごろ。

浙江・諸曁の農家の子であった王元章は、長じて身長七尺余の偉丈夫となった。(当時の一尺は30〜31センチぐらいであるから、2メートルを越える大男である。)

彼は単に立派な体つきをしていただけではなく、大いに読書して「春秋」の三伝(左氏・公羊・穀梁)に通じ、江南ではそこそこに名の通った学士となって北京の街に出てきた。そして元朝の催した科挙試に応じたのである。

しかしながら、落第しました。

王元章はひとたび落第するや、翌朝にはこれまで書き溜めた文章を焼き捨てて儒者であることを止め、いにしえの兵法を学びはじめた。

高いつばの帽子をかぶり、緑の蓑を着、高足駄を履き、木剣を引っさげた奇抜な姿で都大路を歩く。また、ときには、雇った黄色い牛の背中に揺られながら、「漢書」を読みふけっている姿も見られたのである。

ひと、みなその背後から指をさして

狂生。

おかしな学士さんだよ。

と呼んだ。

元末の権力者・泰不花(テブカ)の知己を得て宮中の書記に任ぜられる機会があったが、

不満十年、此中狐兎遊矣。何以禄為。

十年に満たずしてこの中に狐・兎遊ばん。何を以て禄と為すや。

「十年以内に世は大いに乱れ、(国家は亡命して)この宮殿の中にはキツネやウサギが住み着くことになりましょう。お給料をいただくというても、そのときになったら何をいただけるのでしょうかなあ」

と答えて職を受けなかった。

このころより筆を取って梅の画を描くようになった。その画はいわゆる「没骨体」(描線をはっきりさせない画法)のはやりの画だったから、都の貴人らが争って買い求めたが、そのうちに思うところがあったのだろう、普段より大きめの一幅を画き、自らのあばら家の壁に貼り付けて、これに筆墨あざやかに題を付けた。

冰花箇箇円如玉。  冰花、箇箇(ここ)に円きこと玉の如し。

羌笛吹他不下来。  羌笛の他(かれ)を吹くも下来せず。

白梅の氷のような花びらよ。ひとつひとつ、まるきこと玉のようである。

西域の異族、伝来の笛を梅の花に聴かせようと吹くも、花びらは落ちてこようとはせぬだろう。

自らを白梅の花びらに、貴人たちを笛を吹く西方の蛮族に喩えた、と誰にだって読み取れた。これが朝廷・重臣を諷刺するものであると指弾され、司直に捕らえられようとしたが、そのときには既に元章は妻子を連れて姿をくらました後であったのである。

彼はそのまま、浙江の九里山に隠れ、「梅花屋」なる庵を結んで暮らしていたという。

やがて明が江南一帯を統一すると、彼もまた探し出されて太祖の幕閣に招聘されたが、

一夕、以病死。

一夕、病を以て死す。

ある晩、病を得てその夜のうちに亡くなった。

という。

その死があまり突然であったので、種々の浮説が流された。

徐福渓は、

・・・・・・・・・・・己亥の歳(1359.元の至正十九年)、元章が庵の中で昼寝をしていると、突然、明の兵士たちが乱入してきた。

そのとき、元章は

我王元章也。

我は王元章なり。

「わしは王元章じゃぞ」

と大声を以て呼ばわった。

兵士らは驚き、またこれが北京で狂生として名高かったひとであることを知って、本営まで案内したのである。

本営では将軍(胡越公であるという)が賓客として上座にすわらせ、再拝して教えを請うたところ、王元章は言った。

今四海鼎沸、爾不能進安生民、乃肆虜掠。吾寧教汝与吾父兄子弟相賊殺乎。

今、四海鼎沸し、なんじは進んで生民を安んずるあたわず、すなわち虜掠を肆(ほしいまま)にす。吾、なんぞ汝に吾が父兄子弟と相賊殺するを教えんや。

「今、四方の海(すなわちこの天下)は鍋の中で湯を沸かしたように大騒ぎになっておる(乱世である)。その中で、おまえさんらは人民の生活を安定させようという方向に進まず、暴虐と掠奪をほしいままにしているだけではないか。わしがおまえさんらにわしの親族や弟子たちと争うための方略を教えることがあろうか。

おまえさんらがわしの言うことを聴かないのなら、すぐにわしを殺しなされい。わしはこれ以上は言うまいぞ。」

と。

翌日、彼が宿所で死んでいるのが発見されたのだ。・・・・・・・・・・・・・・・・

と言っている。

前後から見て、元朝に義を尽くして死節を守ったのであること、明白であろう。

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ただし、「保越録」という当時の記録には、

―――王元章は、

見太祖于軍門、陳攻取方略。

太祖を軍門に見、攻取の方略を陳(の)ぶ。

明の太祖皇帝に軍営で面会し、これからの天下を取る戦略について説明する機会を得た。

太祖、その知見をたいへんよろこび、その策略を以て軍を動かしたのであったが、このとき不幸にも石堰の会戦に敗北してしまい、以後その策略を採用することが無かったのだ。王元章は、このことを恨んでいるうちに亡くなったのである。―――

とも言うので、まことのところはよくわからぬ。

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銭牧斎「列朝詩集小伝」甲前集より。かなり変なひとだったのでしょうね。

 

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