平成21年11月3日(火)  目次へ  前回に戻る

今日は科学してみましょう。

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古今人形不同(いにしえと今(16世紀)とで、ニンゲンの大きさが同じでないことについて)

以下、論証する。

@三国時代の蜀の姜維は、「世説によると、

維死時見剖胆如斗大。

維、死するの時、剖きて見るに、胆、斗大の如し。

維が誅されて死んだとき、その腹を割いてみたところ、肝っ玉が一斗の枡ぐらいの大きさであった。

また、南宋の末に最後まで元と戦って克Rの海で死んだ張世傑は、

獲屍焚時見胆如斗大。

屍を獲て焚く時見るに、胆、斗大の如し。

海中の死体を引き上げて火で燃やした際、確認のために検屍したものの言では、肝っ玉がやはり一斗の枡ぐらいの大きさであった。

というのである。

肝臓が一斗(=現代ニホンでは18リットル)もあったというのであるから、

其人如何其長大。

そのひと、如何ぞその長大なる。

この二人はゲンダイ(16世紀)のニンゲンに比べて、かなり大きかったということになる。

Aついこの間、郷里のひとが開墾のため地面を掘っていたところ、偶然、宋か元のころの墳墓を開いてしまい、

得髑髏如斗大者、人皆駭之。

髑髏の斗大の如きものを得、ひとみな駭(おどろ)けり。

一斗ほどの大きさのドクロを掘り出して、ひとびと大いに驚いた。

ことがあった。

Bまた、利州には唐の則天武后(在位684〜704)の銅像があるが、その

長七尺。

長七尺なり。

背丈は七尺ある。

明代の一尺=31センチであるから、則天武后は女性でありながら2,17メートル、すなわちG馬場よりも大きかったのだ。

C成都には孟蜀(五代の後半に四川を支配していた後蜀のこと)の時代の后妃たちを祭る祀堂が残っているが、その位牌や建物はたいへん大きい。まるで祀られているひとたちがたいへん大きかったかのようである。

D福建の大支提山寺には、これも五代のころの呉越王の寄進した紫袍(高僧の着る紫色の袈裟)があり、今も長老が儀式の際にこれを纏うが、

寺僧昇椅挙領猶払地。

寺僧、椅に昇り領を挙ぐるもなお地を払う。

現代の僧がこの袈裟を着て、(脚の高い禅寺風の)椅子に座り、襟のところを引っ張り上げていても、まだ裾は地面を掃っているのだ。

この袈裟も現代人(16世紀)の体形からみると、たいへん大きいのである。

∵)以上、@〜Dから、

則知古今人形不同。

すなわち古今の人形の同じからざるを知る。

いにしえと現代の人間の、大きさが違うこと、明かである。

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この説得力ある論文は、明の郎瑛「七修類稿」(続稿巻六)に掲げられていた。諸星大二郎先生閣下、星野宣之先生閣下などが提唱しておられる「古代巨人文明仮説」がすでに明代に証明されていたわけである。

郎瑛は字・仁宝、浙江・仁和に成化二十三年(1487)に生まれ、嘉靖四十五年(1566)までは生存が確認されているひとである。(その後いくばくかして亡くなったのであろう。まだ生きていたらすごいひとだが生きていないであろう。)

彼が老年に至るまで、読書して得た知識や世上の見聞を孜々としてメモった記録を整理したのが「七修類稿」五十一巻及び「続稿」七巻であり、

天地・国事・義理・弁証・詩文・事物・奇謔

の七部門に分類して整理したので、「七修」というのだそうである。

ちなみに、上記の論証は事実の観察を踏まえていてなかなか覆せないと思うのですが、@については、反論がございます。

「一斗」という単位が、

●3世紀の三国から魏晋のころ=約2.0リットル

●13世紀の南宋のごろ=6〜7リットル

●16世紀の明代(郎瑛のころ)=11リットル弱

○(参考:日本=18リットル)

とどんどん大きくなってきている(税収等を増やそうという意図などがあったのであろう)ので、実は姜維は2リットルぐらいで、脂肪肝かな、ということで説明がつきそうであるし、張世傑の場合は熱が入ってほかの臓器とぐっちゃぐちゃになっていた可能性も否定できないのである。

 

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