平成21年10月26日(月)  目次へ  前回に戻る

「これはこれは、お久しぶりでございます」

圃亭先生・唐甄、字・鋳万さんがいらっしゃいました。四川・達州のひと、明の崇禎三年(1630)の生まれで、亡くなったのは清の康煕四十三年(1704)になります。

「ん? 亡くなった? わしは生きておるぞ・・・」

「そうですなあ、いやそうですとも、はいはい」

と適当に相槌を打って話題をそらします。

「ところで圃亭先生、顔色がすぐれないようですが」

「うむ、それがのう、実は・・・、さて、次のうちのどれだと思うかな?」

と先生がおっしゃったことには・・・

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

その一

もし友人がいて、このわし(唐先生)が憂いに沈んだ顔をしていたのを見たとする。友人は言うであろう、

――唐先生、どうしてそんなに悲しそうな顔をしておられるか。

そこでわしは答える。

無食也。

食らう無きなり。

――メシを食って無いのじゃ。

貧乏でメシが食えず、腹が減って悲しそうな顔になっているのである。

――ああそうですか。ではさようなら。

と友人は家に帰り、自分の家でメシを食いながら、ふと、

――そういえば唐先生はメシを食っていなかったのであった。

と思いなおし、その友人が豊かなら、蔵を開いて米を運び、箱を開いて黄金を贈り、一生の間窮乏することの無いようにするであろう。その友人が貧しければ、破れたお古の衣を寄越し、あるいは裏の畠でとれた野菜を恵み、とりあえずその場の急を凌がせて、明日のことをゆっくりと考えられるようにしてくれるだろう。

それが友情というものであろう。

その友人が見つからないから憂いに沈んでいるのである。

その二

もし友人がいて、わし(唐先生)が秋になっても収穫物を用いて先祖を祀る祭り(「嘗祭」)ができないので、沈んだ顔をしているのを見れば、問うであろう、

――唐先生、どうして嘗祭をしないのですかな。

そこでわしは答える。

無以供尊俎也。

以て尊俎に供える無きなり。

――ご先祖さまに捧げるための「尊」(さかずき)に注ぐ酒、「俎」(皿にする板)に置く食物、が無いのじゃ。

貧乏で祭りの供物が買えないのである。

――うーん、それはいかんぞ。

友人は難しい顔をしていうのだ、

祭、大事也。死不能祭、猶生不能養也、不亦傷乎。

祭は大事なり。死して祭るあたわざるは、なお生きて養うあたわざるがごとく、また傷まざらんや。

――祭祀は大切なことじゃぞ。死んだ先祖の祭ができないのは、生きている両親に食い物を食わせることができないのと同じだ。なんとつらいことではないかね。

そこで家に帰って、下男に命じ、一頭のブタ、一匹の羊、二羽のニワトリ、一そろいの魚、旨酒、それに今年獲れたよき穀物・・・をわしの家に持ってこさせる・・・、金持ちはそれぐらい呉れてもいいと思うが、貧乏なやつでも魚一匹、野菜、甘酒ぐらいは呉れるであろう。

そうして、

秋分逝矣。雖後、可追。

秋分逝けり。後るといえども追うべきなり。

――秋分は終わってしまった。時節に後れてしまったが、追いかけて祭をすべきである。

――おまえさんは先祖を祀るのを止めようと思っていたのではなくて、できなかっただけなのだ。今日できなかったなら明日やればいいではないか。明日はまだ物が揃わないのなら、明後日やればいいではないか。どうしてそんなに憂いに沈んだ顔をしている必要があろうか。

と言うて、わしに祭礼を執り行わせてくれるのだ。

これが友情というものではないか。

その友人が見つからないので憂いに沈んでいるのである。

その三

もし友人がいて、わし(唐先生)が憂いに沈んだ顔をしているのを見て、どうしたのかと問うならば、わしは答えるであろう、

――わしには子どもがいないのじゃ。そして女房はもう老いており、いまさら子を産むことはできぬであろう。

友人は言う、

子無子、何為不買妾。

子、子無ければ、何すれぞ妾を買わざる。

――先生、お子さんがいないのであれば、どうして若い妾をお買いになりませんのか。

わしは答える、

無財也。

財無きなり。

――カネが無いんじゃ。

――ああ、そうですか。ではさようなら。

と言うてわかれた後、家に帰って友人は晩飯を食いながら子どもを撫で、夜の床で若い妾を貪りながら、ふと、

――唐先生にはこの幸せが無いのだ・・・

と思いつく。

そうすれば、自分の支出を少し切り詰める。自分の箱に貯金するときに少し貯金を減らす。自分が婚姻したり宴で楽しんだりするときに、費用を少し切り詰める。一日分切り詰めただけで足りないなら一月分切り詰める。一月分で足らないのなら一年分切り詰める。一年分で足らないのなら来年もまた切り詰める。

さてさて。・・・・・・・・・・・・・・・

むかしむかし(紀元前506年のことである)、呉の国が楚の国に攻め込んだ。楚の国は王都まで陥とされ、楚公は山中に亡命した。王族の申包胥というひとは、公の命を受けて秦の国に向かい、楚を救う軍を派遣してくれるよう願った。

その言、哀切を窮めた。

しかし、兵は重器である。秦王は参戦を肯んぜず、申包胥に宿所で休むように伝えた。すると包胥は、

寡君越在草莾、未獲所伏。何敢即安。

寡君越えて草莾にあり、いまだ伏すところを獲ず。何ぞあえて安に即かんや。

我が主君・楚公は王都から亡命して草むらの中に隠れ、今もゆっくりと横になる場所さえございませぬ。どうして宿所で安らかに待っていられましょうか。

と言いて、

立依於庭牆而哭、日夜不絶声。勺飲不入口、七日。

庭牆によりて立ちて哭し、日夜声を絶せず。勺飲口に入らざること七日。

王宮内の庭(「廷」)の垣に寄り添って立ったまま、声をあげて泣きはじめた。昼も夜も泣きつづけ、ひとさじの飲み物も飲まずに七日を経た。

秦公はとうとう重臣会議を開き直し、出兵を決めた。・・・(「春秋左氏伝」定公四年

・・・・・・・・・・という、かの申包胥のような気持ちでわしのためにお金を貯めてくれるのだ。

彼はそうやって貯めたお金で、

為之図買妾。

これが為に妾を買わんことを図る。

わしのために若い妾を買おうとしれくれるのである。

わしが以前、妾を買おうと思うてひとに頼んだら二十余金を求められた。二十余金程度のはした金で、虞帝以来続く名家・わが唐氏を絶えさせてしまっていいものか。

友情というのはこうあらねばならないだが、そのような友人が見つからないので憂いに沈んでいるのである。

ああ、この三つのことはすべて友人としてなさねばならないことばかりである。友人が見つかれば彼は必ずそうしてくれるであろう。わしと彼と、立場を変えたとしたら、わしは何としてでもそうしてやるであろう。

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「潜書」上の下「交実」(友情のあり方)より。(同書から引用するのはずいぶん久しぶりである。三年ぶりぐらいか。本日、あるモノを探す必要が生じ、家捜し状態になったために発掘されたのです。)

わしは先生に言うた。

「うーん、結局全部おカネの問題ですか。・・・やっぱり「その一」ですかね。一番ひとの心を打つのは「メシが食えない」ということではないかと思います」

「まあ待て。「その三」だとは思わんのかね。二十余金だぞ」

と会話しているうちに、先生はわしがコンビニで買うてきたおでんを食ってしまった。おでんを食って暖まったらしく、何となく幸せそうな顔になって、

「じゃあ、また来るね」

と言うと帰っていきました。

 

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