令和元年11月23日(土)  目次へ  前回に戻る

寒くなってきました。東京は夕方早く暗くなるのがさびしくてかないませんわー。雪国はたいへんだろうなあ。

岡本全勝さんに勧められて読んでいるんですが、鹿島茂先生はオモシロいですね。フランスの古書を買いあさって破産していくみたいです。

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「巴里」といえば花の都Parisのことだ、と思う人が多いと思います。すごい古本屋がたくさんあるらしいのですが、しかし実は「巴里」はパリではないんです。西域の地名「巴里坤」(バリコン)(現在は「バルクル」と称するようである※)に当てられた表音なので、「バリ」と読むのが本来の読みのようである。

巴里坤在哈密之西北三百余里。

巴里坤は哈密(こうみつ)の西北三百余里に在り。

清代の記録なので、当時の一里は約570メートル。

バリコンはハミの西北、およそ170キロメートル余りのところにある。

ちなみに、

烏魯木斉之東、亦准噶爾故地。

烏魯木斉の東、また准噶爾の故地なり。

ウルムチの東になり、かつてはジュンガル部の本領であった。

為南北両路適中之所、在雪山北、気寒多雪、惟夏日乃無耳。

南北両路の適中の所たりて、雪山の北に在りて気寒く多雪、夏日すなわち無きのみ。

シルクロードの天山南路・天山北路が西からゴビ砂漠を渡ってきて、合流するところに当たり、雪山(ヒマラヤ)山脈の北にあるため、気候は寒冷にして雪が多く、雪が無いのは夏の間だけ、という土地である。

もとこの地は、後漢のとき西域征討の指揮官となった奉車都尉・竇固(とうこ)の書記官として従軍した班超が、

以超仮司馬将兵別撃伊吾、戦於蒲類海多斬首虜而還。

超、仮司馬を以て兵を将いて伊吾を別撃し、蒲類海に戦いて多く虜を斬首して還る。

班超はこのとき見習い士官となり、別動隊を率いて伊吾(イゴ)を攻略し、蒲類(ほるい)海で戦闘状態になって、異民族の首を多数斬りとって帰還した。

注にいう、

蒲類匈奴中海名在敦煌北。

蒲類は匈奴中の海名、敦煌の北に在り。

蒲類は匈奴領域内の湖の名前で、(天山南北路の合流地である)敦煌(ツルファン)の北に在る。

として登場する「蒲類」湖畔の地名なのだそうです。(「後漢書」巻七七「班超伝」

ところで、この巴里坤の城門に入る直前、

道旁有石碣一。

道の旁に石碣(せきけつ)一有り。

荒涼たる街道の道ばたに、たった一つ、石碑が建っているのだそうである。

その碑には、

漢文称、其地砂磧険遠。

漢文に称す、「その地、砂磧険遠なり。

漢文でこう刻まれているのだそうだ。

「砂と石の険阻な原野を通って、遠くこの地までようこそ。

ああ、旅人よ、つま先立ててはるかに見よ。

極望西北、気青白、漫漫如霧。雪深盈丈、人畜不能行。

西北を極望すれば、気青白にして漫漫と霧の如からん。雪深く丈に盈ち、人畜行くあたわざるなり。

一丈は清代は3.2メートル。

町の向こう、西北のかなたを見れば、地平のあたりの空気は青白く、まるで霧が立ち込めたように霞んでいるであろう。そこは雪深く3メートルを超し、ひともケモノも行くことはできぬのだ!」

云々。

さらに続くらしいが、伝聞では詳らかにはわからない。

不知為何代所立。蓋荒寒之地、自古棄之域外也。

知らず、いずれの代に立てるところたるかを。けだし荒寒の地、いにしえよりこれを域外に棄つるなり。

この石碑はいったいいつの時代に、誰が立てたものなのであろうか。いずれにせよ、荒涼たる辺境、古代より文明の外に棄てられてきた地なのである。

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「茶余客話」巻十三より。いまウイグル族どうなっているのかなあ。当局に収容されて強制労働をさせられたりしているそうですから、労働して近代都市を作りあげて、勤労に感謝されているのかなあ。(←もちろんシニカルな意味をこめて言ってるんですよ)

なお、「バリコン」は突厥の語で「虎の湖」、「バルクル」はモンゴル語で「虎の前足の爪」という意味なんだそうです。カッコいい!

 

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