令和2年9月11日(金)  目次へ  前回に戻る

逃げよ、逃げよ、世俗社会より逃げよ。

やっと週末だが、また来週がキツイ週になるらしいでちゅー。

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ついでなんで今日も「チュー庸」について。「ネズミが文字を書くなんて珍しいのう」みたいな優しいキモチで今日も付き合ってくださいでちゅー。

誠者自成也。而道自道也。

誠なるものは自ずから成るなり。而して道は自ずから道(みちび)くなり。

と読め、と朱晦庵先生が申しておられます。

「誠」というものは、おのずから完成していくもの。そして、「道」はおのずから導いていくものだ。

晦庵先生は、さらに、

言誠者物之所以自成、而道者人之所当自行也。誠以心言本也。道以理言用也。

誠なるものは物の自ずから成る所以(ゆえん)、道なるものは人のまさに自ら行うべきところを言うなり。誠は心を以て本を言うなり。道は理を以て用を言うなり。

「誠」というのは物事がおのずから完成していく「ちから」であり、「道」というのは人が自分で行わなければならない当然のことを言うのじゃ。「誠」は「心」の問題について、本体を論じており、「道」は「理」の問題について、はたらきを論じている、というわけじゃな。

とおっしゃっておられます。

理解できるかどうか、という大問題はさておき、朱子学の基本構造である「二元分析」が見られますね。

こんなコトバを若いときに読むと、へーげるとかまるくすとか読んだみたいに興奮してきます。肝冷ネズミも若いころはちょっとそんなところもあったんじゃ。

魔法の解けた今となっては、この学問を学んでいた19世紀ぐらいまでの東方のオトコのひとたちは、ここでいう「道」とか「理」とか「所以然」とか「所当然」とかを、譬喩だとか人生訓として読んでいたのではなくて、「世界の把握」、言い換えれば「科学のコトバ」として読んでいた、ということに注意しなければいけない、と思っています。当時のひとは、こういうコトバを知っていれば、自然界のことも社会のこともそれを知らない人よりは知っている、と自他ともに認めてくれる、おまけに就職もできる、という世界に住んでいた、ということです。

この「道」とか「理」とかは「ジェンダー」とか「グローバリズム」とか「クジラかわいそう」とかという「唱え言」と入れ替えが効く、ような気もします。

「チュー庸」本文に戻ります。

誠者物之終始、不誠無物。是故君子誠之為貴。

誠なるものは物の終始、誠ならざれば物無し。この故に君子これを誠にするを貴しと為す。

「誠」というものは物事を始めさせ、終わらせるもの、つまり「誠」でなければ物事はあり得ないのだ。この故に、立派なひとは、誠実に行動することを尊重すべきとしているわけだ。

「誠」は物質を存在せしむる素粒子とかヒッグス粒子とかのようなものなのでしょうか。彼らは素粒子とかヒッグス粒子を知らないので、その代わりに「誠は世界の根源だなあ」と言って納得していたんです。そうすることで褒められる、試験でもいい成績がとれる、女子にもモテる、という世界に住んでいるんだからしようがありません。

「誠」と「誠之」(これを誠にす)とは違う概念なので要注意。「誠」は体(本質)であり「誠之」は用(はたらき)です。

誠者非自成己而已也。所以成物也。成己仁也、成物知也。性之徳也、合内外之道也、故時措之宜也。

誠なるものは自ら己を成すにあらざるなり。物を成す所以なり。己を成すは仁なり、物を成すは知なり、性の徳なり。内外の道を合するなり、故に時措の宜しきなり。

「誠」というものは(物の終始だと言ったが)おのれでおのれを完成させていくのではない。それが他者を完成させることのできるワケである。自分を完成させていくのは「仁」の、他者を完成させていくのは「知」のはたらきで、これらはニンゲンの本性が持っている「徳」なのだ。ここにおいて自分の内側と外側のそれぞれの道筋は合致した。だから、その時その場所に応じた対応ができるのだ。

なんだこりゃ。たまりません。しかし、「内外」の道は、内は「敬」、外は「義」、しかれども内外に別無し!と覚えておくと昔は褒められたもんなんじゃ。

もう書くの疲れてきましたので、くわしいことは遠い未来に。ちゅー。

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「中庸」第二十五「誠者自成」章です。三十年以上前、洋楽やスキーやクリスタル族やテクノの次は朱子学だ! ここに最先端が来るぜ! と考えた初代肝冷斎は偉大だったのでちゅねー。

誠なるものは物の終始、誠ならざれば物無し。

は、ここだけ抜き出して、ゲンダイ的認識のもとに

「おれは誠実に対応しただろうか。そうでなければ何をしたとしても何事も生み出していないのと同じだぞ」

と毎夜反省するにいいコトバでちゅーけどね。肝冷斎はダメになってしまったが・・・。

 

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